”心に聞いてみた”って、なんのこと?
「心に聞いてみれば?」「心の中に答えはあるよ」
というおきまりのセリフがあると思うのだけど、正直な話、「なんだそれ」と思っている。
もちろん言いたいことはわかるし、私だって、そういう時があるだろう。
多分大抵の人は、それで答えが出たり、動けたりするのだとも思うのだけど。
心の声ってどうやって聞けばいいの?
漫画やアニメみたいに、ポンっとキャラクターでも出てきて、「そっちはダメよ」「やっぱりこっちがいいわよ」などと言ってくれるわけでもなし、心に聞いてみたところで、考えているのと同じだから、”邪念”でいっぱいだろ、と思ってしまう。
もちろん周りにも「心の声を聞いて」とか、それが何かのタイミングだった人はたくさんいるんだけど。
悩んだ時、ストップした時に、自分の心に聞いたところで、その止まった出来事や悩んでることでいっぱいんいなるんじゃないかと思うし、実際そうなる。
邪念が出てきて「はーコーヒー飲みたいわ」とか思ったりもする。
だから、「心の声を大事にしてみればわかるよ」とか言われてしまうと、困惑してしまうのは、私だけなのだろうか。
リアリストでもないけどロマンチストだけでもない
心の声を聞くってみんなできるの?が一番素朴に感じていること。
小さい頃は、ロマンティストとか夢見る夢子ちゃんとか言われたし、今現在は、割と冷たいとか現実的と言われることが多い。
自分では変わっていないと思うし、多分割と夢見る夢子ちゃんのままだと思う。
それでもこんなノートを書いている時点で、リアリスト・現実的なんて言われそうだなとは思っているけれど。
「心の声を聞く」って割とロマンティックなことな気がするから、真っ向疑問提起をしているのだし、現実的と言われても仕方ないとは思いつつ、「みんなは違うの?」とも思う。
心の声を聞くのは、現実的なこと?
”心の声”って言うと、なんかちょっと照れない?
こんなノートを書いてるのだから、お察しいただいたかもしれないけれど、
心の声を優先しました、心に聞いてみました、みたいなことを聞くと、こちらは関係ない出来事であっても、小っ恥ずかしくなってしまう。
別に悪いことでもなく、恥ずかしいことでもなくとは思うけど、なんだか照れてしまう。
「なんできけるの?」「なんで心の声ってわかるの?」「それはやりたいことや欲しいもの、そう言うのとはどう違うの?」と聞いてみたくなってしまう。
私がやりたいことや興味対象がたくさんあるから、無縁なんだよ。と言われたこともあって、それはそれで納得できる。
でも、改めてじゃあ心の声を聞く、となったら、どうすればいいんだろう。今やりたいと思っていること、欲しいと願っているものは、心んお声じゃないってこと?と、考えてしまう。
だから私は今も、「心の声を聞く」方法がわからない。
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