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難関突破!恋の宮「金崎宮」地元の人々の強い要望で明治創建【福井シリーズ】

境内には約400本のソメイヨシノ桜があり、展望が素晴らしい。織田信長、豊臣秀吉、朝倉家など歴史が詰まった神社である。恋の宮となっている。

1336年:恒良親王と尊良親王
 後醍醐天皇の二人の皇子である恒良親王と尊良親王を守護した新田義貞が足利軍と戦った古戦場。
1370年代:恋の宮
 鎌倉幕府末期のこと、才覚も容貌も優れ、次期の皇太子候補の尊良親王だったが、別の親王が皇太子に就任。尊良親王はすっかり落ち込んでしまう。  
 見かねた友人・二条為冬は尊良親王を連れ出し下鴨神社へ。その帰路で御匣殿(みくしげ)という姫君と出会う。しかし、御匣殿には婚約者がいたのだが、1000通以上の恋文を送ったところ、恋は実った。
1570年:挟み撃ちの難を逃れて難関突破
 織田信長の越前朝倉攻めで、妹・お市は浅井・朝倉両軍に挟まれ窮地に陥ったことを知らせるため両方を紐で結んだ袋に小豆を入れ陣中に届け、この様子が袋の鼠の意を表しているということに気づいた信長は、すぐに撤退したのでした。

変更履歴
2022/07/17 初版

▼HP

公式HPより由緒
 延元元年(1336年)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に攻め寄せると、後醍醐天皇はこれを比叡山に避けられた が、同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、京都に還幸されることになり、その際天皇は別に新田義貞(にったよしさだ)に命じ、尊良親王・恒良親王を 奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向せしめられた。
 新田義貞一行は雪中の木の芽峠を越えて敦賀(つるが)に着き、氣比神宮(けひじんぐう)の大宮司氣比氏 治に迎えられその居城、金ヶ崎城に入った。一方足利尊氏は高師泰(こうのもろやす)を総大将として兵六万余もって陸海より金ヶ崎城を攻撃、延元2年正月、 杣山城(そまやまじょう)の瓜生保、里見時成等兵五千余も金ヶ崎の急を救わんとしたが、迎撃に遭い、保、時成等戦死、3月6日遂に落城、尊良親王は新田義顕(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と共に亡くなられた。尊良親王御年27歳、義顕18歳であったと伝えられる。
 恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月13日毒薬を盛られて亡くなられた。御年15歳であったという。

 明治の御代に至り、当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、明治23年9月尊良親王を御祭神とし、宮号を 金崎宮として官幣中社に加列せらるる旨仰出された。同25年11月には恒良親王を本宮に合祀され、同26年5月5日勅使参向せしめられ鎮座祭及び奉告祭を 執行、翌6、7日両日に奉祝祭を執行し、以来毎年6日をもって例祭日と定められた。
 しかし、同36年3月、町内よりの出火により本殿以下三棟を焼失、日露戦争後の同39年4月に正還宮再建されたが、この時御本殿は現在の地に移され、建築様式も流造より神明造に改められた。
 昭和57年本殿等の破損著しく改築、桧皮葺の本殿、瓦葺の拝殿等が銅版葺に改められ、現在に至る。

 新田氏と言えば藤島神社。なるほど皇族が参拝したり、伊勢神宮古材が贈られるのがわかる。

▼アクセス

福井県敦賀市金ヶ崎町1-4

▼祭神

尊良親王(たかながしんのう)※後醍醐天皇一の宮
恒良親王(つねながしんのう)※後醍醐天皇皇太子

▼見どころ

 この小高い丘や海目での距離などから「天然の要害」の地であったようだ。

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そして山といえば愛宕神社で、階段が急ですよね・・。金崎宮は一度焼失しているので、火の神・カグツチを祀ったのでしょう。

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では参拝です。

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  織田信長が朝倉軍と浅井軍の挟撃に遭いそうになりながらも難を逃れた事から「難関突破」のご利益がある。

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 境内に入ると拝殿・本殿の前に舞殿(神楽殿)がある。

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拝殿と本殿です。神明造りですね。

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桜の時期は福井新聞、福井テレビの動画でどうぞ



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