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京都三熊野「新熊野神社@本宮」-熊野詣シリーズ-【三十三間堂シリーズ】

京都から紀伊熊野までは700kmで1ケ月以上の旅。後白河法皇は生涯34回も参拝した。ただ遠い・・京都に分霊だ!となり京都熊野詣が出来上がる。ということで、「京都熊野神社」「熊野若王子神社」「新熊野神社」を紹介して熊野詣(熊野本宮大社&熊野本宮大社旧社地大斎原、熊野速玉大社&神倉神社、熊野那智大社、花の窟神社)でGO!と思ったが、「熊野若王子神社」は哲学の道シリーズで書きたいなどあり、分けた。

京都と熊野の「熊野詣」のつながりは今も続く!境内案内板より。

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熊野詣(もうで)
 紀伊半島南部・熊野にある、本宮(ほんぐう)・新宮(しんぐう)・那智(なち)の「熊野三山」を参拝することを指す。
 院政期の度重なる熊野御幸(くまのごこう)をきっかけとして熊野は日本国中の人々に知られるようになり、上下貴賤男女を問わず大勢の人々が訪れるようになる。
 平安時代後期以降の浄土信仰の広がりのもと、本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来、新宮の速玉神は薬師如来、那智の牟須美神は千手観音を本地(本体)とし、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになった。
※本来は「九十九王子」も含めて記載したいですが、気が遠くなるので書かないでおきます!?( TДT)ゴメンヨー

京の三熊野神社
 平安時代には紀伊熊野にある熊野三山(熊野本宮大社の本宮と熊野速玉大社の新宮と熊野那智大社の那智)に参る人が絶えない熊野詣が盛んだったが、京都から紀伊熊野までは遠くて大変な行程で、そこで、熊野三山を京の都に勧請したのが、京の三熊野神社である、とのこと。
なお、後白河法皇により創建された京都三熊野神社だが、その後白河法皇は、生涯で34回も紀州の熊野三山詣でを行ったそうだ。
 ・新熊野神社⇒熊野本宮大社
 ・熊野神社→熊野速玉大社
 ・熊野若王子神社→熊野那智大社

変更履歴
2021/11/06 初版

▼HP

▼アクセス

京都市東山区今熊野椥ノ森町42

▼祭神

※後述「▼みどころ」参照。

▼見どころ

 後白河法皇によって創建された神社です。現在三十三間堂の東側にある法住寺に法皇がおられ、その鎮守社として新熊野神社が創建し、その鎮守寺として三十三間堂が創建された。

 紀州熊野に対し、京にある今の熊野ということから「いまくまの」と呼ばれるようになったようだ。

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 今熊野神社の由緒書き

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▽樟社:樟大権現

境内の樟の木は、熊野から移植した後白河上皇お手植えの御神木と言われ、現在も「樟大権現」「樟龍弁財天」として信仰されている。

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▽本殿:熊野牟須美大神(くまのむすび=伊弉冉尊(いざなみ))

熊野那智大社の主祭神を祀る。

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▼紀伊熊野詣

 今熊野神社で熊野詣が出来ます。神倉神社など摂社なども並んでおり、神仏習合(神様と仏様)のお勉強ができます。熊野詣をした方は行くべし!

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↓熊野詣シリーズの最後はここにしています!

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▽下四社:稚産霊命、軻遇突智命、埴山姫命、弥都波能売命

この四柱の神は熊野牟須美大神から化成・分身した神々で、自然の恵みを象徴する神々。稚産霊命は穀物と養蚕、軻遇突智命は火の神、埴山姫命は土の神、弥都波能売命は水の神。

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▽中之社:天忍穂耳命、瓊々杵尊、彦火火出見尊など

この記事を書くときに公式HPを一読したのですが、この神々は天照大神から神武天皇に至る4代の神々を祀る。私がそうだったのですが、古事記を読んだことがある人は、日向の神々(現宮崎)!と思う人もいるかと思うが、確かにアマテラスからイワレヒコ(神武天皇)の流れですね。

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いろいろなところで「日向社」があり、今まで宮崎・日向地方とか、山頂では太陽を指すと思っていたが、シンプルにアマテラスの系譜を指すのかもしれません。で、なんで京都に・・?そう京都はニニギなど日向系が・・と元に戻る・・。

▽上之社:速玉之男大神(イザナギ)&熊野家津御子大神(スサノオ)

熊野速玉大社の主祭神「熊野牟須美大神」「速玉之男大神」と熊野本宮大社の主祭神「熊野家津御子大神」を祀る。
速玉之男大神は伊弉諾尊(イザナギ)、熊野家津御子大神は素盞嗚尊(スサノオ)である。

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▼セットで行くところ

↓今熊野観音寺がある。西国三十三札所でもある神社仏閣!

▼旅行記


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