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父、帰る
遠い人の本当の想いを理解するとき。
人生は激変する。
カウンセリングでも長く会っていない親御さんに会うことをよく勧める。
興味深いのは。
たとえ亡くなっていても再会できたかのようなことすらも起きること。
すると。
想定しなかったようなことがどんどん起き始めて、短期間で人生が変わる。
本当はとても愛されていたことを知るからだ。
愛せないとき、人は苦しむ。
会えなくなったあの人は誰よりもきっと、あなたを愛していた。
リハビリセンターの送迎車で通所していた時期。
いつも同乗していた少し年上のおじさんは野球をやっていた人だった。
作新学院の江川が洒落にならないほど強くて。
なんとかファウルでひっかけると監督やチームメートから「江川の球を当てた」と誉められた思い出を教えてくれた。
よく同じ話をする。
ご本人の性格か年齢によるものか。
はたまた後遺症か微妙だなと思いつつ。
還暦野球中に倒れちゃってさあと言う声を思い出せるのは、何度も聞いたからだ。
実際に思うので、Kさんが生きてくれてよかったです、と言う。
感慨深げだったのをよく覚えているのは。
もちろん何度も言ったからだ。
雑な表現かなとも思うけど。
でも、お互いに九死に一生を得ているからこその祝福でもあるので遠慮はしない。
手指の機能訓練で軽作業をしていたとき。
小さな部品を落としてしまったら、近くを通りかかったKさんが、さっと拾って渡してくれた。
俺は動きが軽いんだよと言いながら。
ゴロを捌いたみたいだなと感じた。
すごく背が高いことにも気がついた。
普段、車内で座っているところばかり見てたからわからなかった。
「江川の球を当てた」のが事実だったのか謙遜だったのかはわからない。
だけど、結構な強打者だったと思う。
送迎車は何軒か回る。
車内ではFMラジオをかけている。
いちばん初めに乗って、いちばん最後に降りるKさんは乗車時間が長い。
退屈しのぎの意味もあるんだろう。
古い流行歌がかかるとよく口ずさんでいた。
とても上手かった。
父に似ているなと、何度も思った。
人は、罪悪感という感情を使って距離を取る。
無意識的な行動だからこそ、なかなか気づかない。
心理的にも物理的にも距離がある人。
私の場合は母と別れた父だった。
もし距離を近づけることが出来たら。
人生は変わってゆく。
罪悪感を手放した分だけ愛を感じられ。
愛されている感覚が現実化するからだ。
自分を良い存在だと思えるようになるから、大切な人に誠実に向き合える。
人の目が怖くなくなるから、魅力を表現できるようになる。
結果的に、恋愛や結婚や仕事が楽しくなり。
人生がうまくいきはじめる。
生きててよかったと、思えるようになるのだ。
存命でも、亡くなっていてもあまり関係はない。
近づいていく手段はいくらでも与えられる。
父は母と離婚した。
父が私を捨てたのだと思っていた。
だけど、もう会うことは叶わないだろうと思って諦めたのは私だったのだ。
江川は、どうしても巨人に入りたかった。
ピンクレディの「サウスポー」が大流行していた。
背番号1のすごいやつ。
もちろん一本足打法の王貞治選手をイメージさせた歌詞。
ミスタージャイアンツこと長嶋茂雄選手とともに、読売巨人軍は、みんなの憧れだった。
法政大学を卒業し他球団の獲得を嫌って野球浪人をしていた江川は、ある意味恣意的に一旦阪神に入ってすぐ、巨人に入団した。
小林繁の阪神への電撃的なトレードによって。
私は小学2年生だった。
父とナイター中継を観ていた。
画面に大写しになる小林投手。
ユニフォームがジャイアンツだったか、タイガースだったかは覚えていない。
口を大きく開けて肩で息をしている。
思わず笑った。
餌をやると口をぱくぱくさせる金魚に似ていて、おかしかったから。
父にたしなめられた。
一生懸命やっているから、ああいうふうになるんだ、と。
ほんの僅かな、子供時代の父との記憶。
母と仲が悪くて、そもそも家に寄り付かなかったから、あの日私と一緒にナイターを観ていたことは奇跡だと思う。
でも、なんとなく。
私は父と一緒にずっと、野球を観ていたような気がしていた。
私はお父さん子で、父がいないことをずっとさみしく思い。
帰ってくるのはいつかいつかと待ち侘びていた。
久しぶりに父が帰宅したことがあった。
私は一丁前に嫌味を言った。
あらあ、珍しい。いらっしゃい。
家族ではなくお客さん扱い。
本当は、そんなこと言いたかったわけじゃない。
父は、悲しそうだった。
でも、私を寂しくさせている父への怒りで素直になれなかった。
今思えば。
こどもながらに強く罪悪感を覚えている。
父をいじめているような感覚があったからだ。
あのとき言いたかった言葉。
その後ずっと言えなくて。
会えなくなって。
後悔が、澱のように溜まっていった。
父を嫌って距離を取ったのは、私だった。
自分から離れた。
だからもう一度、自分から近づいていく。
人生を、変えるために。
遠く離れれば離れるほど。
もちろん、勇気はいる。
強く罪悪感を覚えているほど。
とても重たく感じる。
でも今なら思う。
罪悪感は。
家族をうまく愛せないという父の苦しみでもあったはずだ。
人生が激変したのは、父と再会してからだ。
カウンセリングのスクールで、親子関係と恋愛は深く関係していると聞いて絶望した。
父は行方不明になって長かったからだ。
どこにいるかも。
生きてるか死んでるかもわからんもん。
どうしようもないじゃん。
お父さんがいる人が羨ましかった。
ずっと。
ところが。
幸せになりたいと心から願うと。
何かはわからないけど、何かが起きる。
ある日、どれくらいぶりかはわからないけど。
母のところに父から電話があった。
父が喪服で夢枕に立ったから、あの人はもう死んでいるに違いないという母の話を。
死んでる人は喪服着ないだろと、心の中でツッコミを入れて聞いた時期の少し後だったと思う。
母から見れば、父に何度も裏切られているので沸点はかなり低い。
久しぶりの電話も、即時、激おこだったのだが。
私が不貞腐れているのを覚えていたらしい。
「お父さんとの関係を整理しないと幸せになれないんだってさ」と。
電話をガチャ切りした後で母は。
思い直してNTTに電話したそうだ。
番号通知でかけていたら、発信元がわかるらしい。
母の謎スキル。
父の浮気と揉め事探知で磨いたに違いない。
こわ。
携帯番号を渡された。
ものすごく勇気を出して、電話をかけた。
ものすごく勇気を出して、会いに行った。
父の終の住処となった大阪へ。
深夜バスで向かった。
あまりにも青白い顔をしていたからか。
事情を知ってる友人が東京駅まで送ってくれた。
それでも、吐きそうになっていた。
車酔いではない気持ち悪さ。
人生が激変する前触れでもある。
翌日。
今は上本町にある新歌舞伎座。
当時まだなんばにあった。
1階のローソン脇からひょっこり顔を出した。
父だ。
どれくらいぶりだろう。
何年も何年も会ってないのに。
2、3日会えなかったくらいの感じがした。
かに道楽に連れて行ってくれた。
心斎橋や道頓堀、千日前あたりをぶらぶら歩いた。
なんばの観光お決まりコースだ。
感動の再会かと想像していたけど、案外そうでもなかった。
だけど、御堂筋線の改札で「また会いに来るね」と手を振って別れ。
父に背を向けて歩き出すと。
私が見えなくなるまで私を見ているであろう父の視線を背中に感じて。
どっと溢れてきた涙。
新大阪に着く頃にようやく少しおさまったけど。
帰りはずっとえぐえぐと泣いていた。
スクールで「ヒーリングワーク」というロールプレイの手法を使った、心を癒す臨床をしているとき、お父さんの話になるのが嫌だった。
父をぼんやりとも、思い出せなかったからだ。
だけど、父に再会してからは。
お父さんとの関係が取り扱われるたびに、ぼろぼろと涙がこぼれるのがとても嬉しかった。
父の顔が、思い出せる。
ただ、それだけで。
嬉しくて涙が出た。
父を思い描くとはっきり感じた。
事情どうあれ。
私は捨てられたのではなく。
間違いなく愛されていたのだと。
私は父の、よろこびだったのだと。
ハンカチ王子こと斎藤佑樹選手のいる早稲田実業が日大三高を破った2006年の西東京大会決勝。
野球好きの友人たちと神宮球場で観た。
あれよあれよと早実は甲子園で勝ち上がり。
マー君こと田中将大選手のいる駒大苫小牧と決勝だった。
延長15回。
1対1で引き分けた凄まじい投手戦。
翌日、決勝再試合。
マー君自身がハンカチ王子と直接対決となった最終打席に立ち、3対4で駒大苫小牧が負ける。
勝ったハンカチ王子が号泣する中。
自身の空振り三振で負けが決まったとき。
マー君がふっと見せた笑顔がとても印象的だった。
いい試合だった。
運命的な。
いつだったか忘れたけど。
駒大苫小牧ー早実戦の話を父とした。
私と全く同じ印象を試合に抱いた父と話が弾んだ。
ずっと会えない間もやっぱり。
父は私と野球を観ていたんじゃないかと思った。
お父さんに愛されていると感じられると、仕事も恋愛もうまくいく。
当時私は、一時的な仕事を渡り歩いていた。
別れが辛すぎてどこかにずっと所属するのが苦手だったから、案件終了したらプロジェクト解散くらいがちょうどよかった。
それでも単価の高い仕事に恵まれるようになった。
仕事に困ることはすっかりなくなった。
夫とも出会えた。
夫、当時の彼氏を父に会わせたのが、千日前にある丸福珈琲店。
父が、一発で夫を認めたのがわかった。
夫と握手をして、父は頭を下げた。
結婚式にも出てくれた。
矢面に立つような気持ちだっただろうに。
父とふたり、バージンロードを歩けたとき。
私はずっと号泣していた。
夢が、叶うなんて。
写真が残っている。
夫と私が神父様に向かって歩いて行くと。
父はやっぱり頭を下げていた。
深々と。
御堂筋線の構内で、背中に父の想いを感じたときと同じように。
いやそれ以上に。
許された気持ちになった。
いろいろあったのは事実。
でも。
みんなが少しずつボタンを掛け違えていただけで。
誰も悪くなかったんだ。
もう責めなくていい。
誰のことも。
もとより。
誰のことも、責めたくはなかった。
愛せなかったことだけが、苦しかったのだ。
江川と小林は引退後、酒造メーカーのCMに出た。
江川卓の巨人での功績と栄光は、巨人を辞めたくなかった小林繁の、犠牲的な阪神へのトレードで成り立った。
撮影で江川は小林に謝罪をしたという。
事前打合せ無しのまま対談収録がスタート。小林と江川はそれまで殆ど直接会話をしたこともないことから、江川は「謝罪」をテーマに収録に臨み、「本当に長い間、申し訳ございませんでした」と乾杯前に謝罪した。それに対し小林は「謝ることないじゃん!」と返答し、「しんどかったやろなぁ。俺もしんどかったけどな。二人ともしんどかった」と江川に語り掛けた。
小林繁が急逝する、3年前の話だ。
私が笑った小林を、父は援護した。
「一生懸命やっているから、ああいうふうになるんだ」。
戦後、物のあまりない時代を、高度成長期を。
バブルとその終焉を、デフレの時代を。
口を開けて、肩で息をしながら。
生き延びたのだろう。
父も。
歌が上手くて、本が好きな人だった。
高校生のときに学帽を置いて歌い。
小遣い稼ぎをしたらしい。
再会してから時折もらった手紙では、情緒的な表現がされていた。
小説家になりたかったらしい。
野球と歌と本と、文章と。
父が、私の中にいる。
年末年始の帰省で、夫とともに大阪まで行き。
父と会うのが年中行事になった。
少しずつ、耳が遠くなり。
少しずつ、同じ話を繰り返すようになった。
5年ほど前。
父が弱り始めているのがわかり、じゃあまたねとなんばで別れたあと。
思わず泣いてしまった。
あとどれだけ。
父に会えるだろうと。
毎年、父と会ってくれていた夫も思うところがあったようで。
何も言わずいてくれた。
年末年始の2週間ほど、群馬でゆっくり過ごせばどうかと父に提案し。
3年ほど来てくれた。
父と母に玄関先で見送られ。
義実家への帰省に出かけたのは、私が病気になる前々年だったと思う。
両親が手を振って。
行ってらっしゃいと送り出してくれる。
帰ってきたら、おかえりと言ってもらえる。
ごく普通でありふれていて。
でも望んでもどうしても手に入らなかった。
ずっと欲しかったものが、目の前にある。
あれが、元気だった父を見た最後だった。
光に溢れた幸せな記憶。
翌年。私が病気になる直前。
父との連絡に、少し行き違いが出るようになっていた。
認知症が始まったかな、群馬に来るのはだいぶ大儀かなと考え。
そのままそっとしてやりとりは母に任せ。
父に会えることなく年末年始を過ごした。
年が開けて3月、私は緊急入院した。
寝たきり、生活動作全介助から、闘病生活が始まった。
大きく、人生が変わってゆく。
回復期を過ごした病院から、リハビリセンターに入所し2ヶ月後。
年末の少し前に自宅復帰が叶った。
とはいえ。
コロナ禍でもあり、回復もまだまだで。
今年は何も出来ないなあと思っていたところ。
父と連絡がつかないと、母が覚悟を決めた様子で伝えてきた。
春になってから。
父は帰ってきた。
小さな骨壷に入って。
暖かくなってきたね。
お父さんがこの時期に居てくれるのは初めてだね。
ここはね。
川向こうの県営球場から応援の音が聞こえるんだよ。
家から見える桜並木も綺麗だよ。
あのとき素直になれなくて。
ずっと言えなくて。
苦しみ続けた言葉がようやく言える。
おかえりなさい。
ずっと、待ってたよ。
父は言うだろう。
おう、ただいま、と。
やなぎさん、おはよう! 今日もよろしくね!
Kさんは声が大きい。
人懐こくて、いろんな人としょっちゅう雑談をしている。
営業力が高そうだなと思う。
近しく、復職もされるとも聞いた。
いやあ、ここは桜が見事だねえ。
ええ、このあたり。
桜が丘っていうくらいですからねえ。
花が終わる頃まで、何度も同じ会話をした。
お父さんあのね、リハビリの仲間にね。
作新の「江川の球を当てた」バッターがいるんだよ。
父は嬉しそうに聞いている。
きっと。
☆
参考資料
『Wikipedia』「小林繁」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%B9%81(参照日:2022年2月16日)
『Wikipedia』「新歌舞伎座 (大阪)」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E%E5%BA%A7_(%E5%A4%A7%E9%98%AA)(参照日:2022年2月16日)
『Wikipedia』「田中将大」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%B0%86%E5%A4%A7(参照日:2022年2月16日)
『Wikipedia』「サウスポー (ピンク・レディーの曲)」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC_(%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%9B%B2)(参照日:2022年2月17日)
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