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【読書感想】人はなぜ「美しい」がわかるのか 橋本治著 4/4

記事その3の続きですhttps://note.com/yamyam5656/n/n0fea79b1cdd1

書籍情報

  • タイトル 人はなぜ「美しい」がわかるのか

  • 著者 橋本 治 
    出版社 ‏ : ‎ 筑摩書房 (2002/12/19)

  • 発売日 ‏ : ‎ 2002/12/19

  • 言語 ‏ : ‎ 日本語

  • 新書 ‏ : ‎ 261ページ

  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4480059776

  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480059772

第三章 背景としての物語 続き


◇著者は、好きな人と一緒だと、平凡な光景でも特別に輝いて美しく見えるという現象を踏まえて、
「枕草子」第二百八十三段を引用して、
人が何かを見て美しいと感じるのは、その時一緒にそれを見た人によっても左右されるのではないか、という仮説を立てます。

◇ 著者は、この段の清少納言と相手との関係は、恋愛感情で結びついているロマンティックなものではなくて、「一緒にいたことを他人に自慢できる」ような貴公子と一緒にいられて「そのことに得意になって気分が高揚している」女と、彼女を「巷で有名な清少納言という女。どんな人物か見てやろう」と興味本位で誘っただけの男、という関係だと分析しています。
なかなか辛辣な見方です。にもかかわらず、清少納言が、二人で牛車に揺られながら眺めた雪景色がキラキラしてこの上もなく美しく感じられたと綴っている事に著者は注目しています。

P171 恐怖による思考停止ではなく、自分の周りにある自分とは直接に関係のないものを「美しい」と思わせるような、リラックスによる思考停止を可能にするのは「人間関係」だけです。

P174 もちろん私の話は単純ではないので、「豊かな人間関係が人の美的感受性をそだてる」なんていうところには行きません。
それをいうなら逆で、「豊かな人間関係の欠落が、人の美的感受性を育てる」です。それさえまだ不十分です。私の言うべき結論は、「豊かな人間関係の欠落に気づくことが、人の美的感受性を育てる」です。

p176 「美しい」を実感する能力を養うために「豊かな人間関係」は不可欠です。しかし、美しいと感じる能力は外に向けられなければ意味のないものです。

「豊かな人間関係」があっても、その人間関係が、ここが一番豊かなんだから、”外”なんか見ずにここを見ていればいいんだと」強制するように働いたら「外」に向けて機能するはずの「美しい」は育ちません。

そしてもう一つ、「自分の所属するもの以上にいいものものがある」という実感ーつまり「憧れ」がなければ「美しい」は育ちません。「美しい」は「憧れ」でもあって、「憧れ」とは「でも自分にはそれがない」と言う形で、自分の欠落をあぶり出すものでもあるのです。

 その欠落を意識することが「外への方向性」を作ります。「自分にはそれが欠けているーだから、イヤだから”外“への目をつぶろう」というのも、「外への方向性」です。「自分にはそれが欠けているーでもそれはいいものだ。だからそれのある方向へ行こう」もまた「外への方向性」で、「美しい」を育てるのはこちらです。

◇ この「外への方向性」と、第二章で述べられている「自分の外側に〝美しいの判断基準を置いて適用すること”の間違い」、この二者の違い。頭では理解できますが、実際に自分が実践できているかというと、私やむやむは自信がありません

◇一方で、「孤独であることと美しいを分かるの関係」についても述べられています。
徒然草の兼好法師が、師走の月を「すまじきもの=寂くてつまらなくて眺めてみるに値しないもの」と書き、それを「美しい」とは感じていなかったことに注目しています。
子供の頃の著者が、夕焼け空や青空に浮かぶ雲を美しいと思ったのは、そこに「充実して過ごした一日が無事に終わりを迎えようとしている幸福感」と一体だったことを述べてこう書いています。

p184 「寂しいのがいやだ」と言うことが分かるのは「寂しくない」と言う状態がどういうことか分かっていることです。「徒然草」の作者は「寂しい」とか「つまらない」がわかっても「寂しくない」がよく分からないのです。

「寂しくない=幸福」が分かっていれば「寂しい=いやだ」で、なんとかしようとします。なんとかする前に、自分の前にあって輝いているものに「寂しくない=幸福=美しい」と言う発見をします。
その発見をして幸福になって、その発見する自分の孤独を知ります。

つまり、「美しい」と思うことは、幸福を欠落させている自分の現状をなんとかしよう」と思う前向きのエネルギーになるのです。

p185 言うまでもなく「徒然草」の作者は孤独です。ー中略ー 我々は、作者を「孤独を克服した人」のように感じるのですが、そうではありません。この時代の人はまだ孤独にピンと来ていないのです。

近代より前の人にとって深刻なのは、「食って行くこと」です。前近代に社会保障はありません。「食って行く」を全うするために、前近代の人は、制度社会と一体化します。つまり、「いつも他人と一緒です」ここに孤独はありません。そのかわりに「転落」があります。

第四章 それを実感させる力


◇ 最終章です。ここで著者は、「美しい=合理的」であると、再び結論しています。 ムム・・・!

◇著者が生まれて初めて‘’美しい”を実感したのが、庭の黒い地面からほんの少し顔を出した、緑色の水仙の芽であったこと、また、誰からも見捨てられた庭はずれの地面に生えるドクダミの花が、意外に美しかったことに気づいたことを例に挙げています。

その「人に見捨てられて寂しげであるもの」が同時に「美しいもの」であることを両立していることに、著者は感動しています。

p 226 そしてやるせなくなってしまうのは、それを見ている自分が「美しくない」からです。そのやるせなさは、天にある月や雲に手が届かないことと同じです。みずみずしく輝く水仙の芽にさわっても、自分がその水仙の芽と同じように美しくなれないのと同じで、「お前なんかどうでもいいや」と思っていたドクダミの花が「きれい」であることに気づいてしまったこととも同じです。こっちはただ「寂しげ」なだけでなのに、向こうは寂しげでも「美しい」のです。だから偉いなと思います。
ー中略ー
なので、私は「美しい=合理的」をたやすく信じてしまいます。「美しい」は寂しい境遇にも負けず、自分の持っている能力を十全に発揮している証拠だと、思えてしまうのです。美しいは自分の能力を十分に発揮できている証拠で、「自分の本来が十分に発揮されている」とは「美しい=合理的」が成り立っていることなのだろうと思えてしまうのです。

p227その見方はもちろん「自分の無能」に悩んでいる私独自の「都合」によるもので、人は「合理的」と言う言葉をそんなふうに使わないのかもしれません。でも私がそういう考え方が必要だったのですから、それでいいのです。
 人間は「自分の存在を自分で作っていく」を必要とするものです。である以上、利己的にならざるをえません。自分が自分で他の誰でもないからです。人間の「利己的」は「自分の存在を作る」の上にあって、である以上、そんな人間が自分の外部に「美しい」と思われるものを発見して、「無能でないとは、あのように調和的で、他から超然としていて、自分の存在を自分の存在として十分に発揮している事なんだな」と学習することは全然悪いことじゃないと思います。

◇以上、引用を終わります。
本書には、心に残ったけれど、ここに載せきれなかった文章や、まだ自分で意味がよく取れていない部分があります。とくに最後の「あとがきのようなおまけ」の段落は、私には難解でした。折に触れ読み返したいと思っています。

◇最後まで読んで下さりありがとうございました。
ご一緒にお茶でもいかがですか?
一息ついて、また面白い本を読みましょう。


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