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『晴明伝奇』第2話の解説

解説

安倍晴明と賀茂忠行親子が百鬼夜行に遭遇

『今昔物語集』巻第二十四第十六話「安倍晴明、忠行に随いて道を習う語」参照。

天変地異や怪異が頻りに起こる

  • 『一代要記』:
    延長八年五月以後七月以前、客星が羽林に入った。

  • 『扶桑略記』延長八年(930)6月14日条:
    蔵人頭(藤原)有相朝臣が外記に仰って言ったことには「去る九日、大極殿の中の梁の上に鷲がいた。陰陽寮が占って言ったことには『子・午・辰・戌年の公卿に病者が出ます』ということだ」という。

  • 『扶桑略記』同年6月12日条:
    申時、紫宸殿の巽の方角及び太政官東庁の坤の方角に虹が立っていた。陰陽寮を召して占わせ、西方に兵革・失火のことを申した。

  • 『扶桑略記』同年6月15日条:
    夜、子の刻に月蝕があった。

清涼殿落雷事件

  • 『日本紀略』延長八年(930)6月26日条:
    午三刻より、愛宕山の上に黒雲が起こって急に陰り、突然雷が大きく鳴って清涼殿の坤の方角の第一柱に落ちた。霹靂の神火があり、殿上に侍していた者で、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣清貫は衣が焼けて胸を裂かれて亡くなった。また、従四位下行右中弁兼内蔵頭平朝臣希世が顔が焼けて臥しまろび、紫宸殿に登っていた者で、右兵衛佐美努忠包は髪を焼かれて亡くなった。紀蔭連は腹が爛れて悶え苦しみ、安曇宗仁は膝を焼かれて臥した。

  • 『扶桑略記』同日条:
    申一刻、雲が薄く雷が鳴り、諸衛が陣を立てた。左大臣(藤原忠平)以下の群卿が陣を起てた。清涼殿に侍す近習十余人が膝を連ねた。ただし、左丞相は御前の近くにいた。同三刻、旱天のなか陰雨が降ってきて、疾雷と激しい風があり、雷電が閃いて辺りを照らした。すぐに大納言(藤原)清貫卿、右中弁平希世朝臣は震死し、側にいた人はめまいがして魂迷した。清涼殿は霹靂に逢い、右近衛忠兼は死に、その体は焦げたようだった。また、雷火が清涼殿の南に着し、右近衛茂景が撲滅した。申四刻、雨が晴れて雷が止んだ。

落雷事件後の天変・怪異

  • 『扶桑略記』延長八年(930)7月5日条:
    雷電があった。

  • 『扶桑略記』同年7月15日条:
    酉の刻、流星が艮の方角に渡っていった。俗に言う人魂である。

  • 『扶桑略記』同年7月20日条:
    雷鳴・風雨が特に激しく、龍尾道高欄が顛倒した。

  • 『扶桑略記』同年8月12日条:
    弁官の西戸の梁上に鳩が集まった。陰陽寮が占って言ったことには「凶です」という。

  • 『扶桑略記』同年9月16日条:
    鳥が時杭二枚を咥えて抜いた。陰陽寮が凶だと占った。

醍醐天皇の病気

  • 『吏部王記』延長八年(930)7月15日条:
    主上(醍醐天皇)がご病気を患った。

  • 『日本紀略』同年7月21日条:
    天台阿闍梨五人を請い、常寧殿において五壇修法を調備した。

  • 『扶桑略記』同日条:
    延暦寺において白檀五大尊を造り始められた。高さは五寸。醍醐天皇のご病気のため行われた。

  • 『花鳥余情』同年8月条:
    重明親王は長谷寺観世音に祈り、醍醐天皇のご病気が平癒することを願った。白檀観音像を造らせ、鏡一面と灯明十万灯を奉った。

  • 『扶桑略記』同年8月9日条:
    度者五百人を定められた。醍醐天皇のご病気のためである。

  • 『扶桑略記』同年8月11日条:
    来たる十三日の諸社奉幣使を定めた。醍醐天皇のご病気のためである。弘仁七年九月、元慶二年三月の前例に准えた。

  • 『日本紀略』同年8月19日条:
    度者一千人を給わった。醍醐天皇の御息災を祈るためである。

  • 『扶桑略記』同日条:
    修験の聞こえに依り、河内国志貴山寺の住沙弥命蓮を召して左兵衛陣に伺候させた。醍醐天皇の御前に伺候して加持を行うためである。

  • 『扶桑略記』同年8月21日条:今日から七日間、御修法が行われる。(醍醐天皇の)ご病気のためである。僧二十三人。

  • 『日本紀略』同年8月25日条:
    右大臣(藤原定方)は天台山において金剛般若経一百巻を読経させた。醍醐天皇のご病気のためである。

  • 『扶桑略記』同年9月7日条:
    醍醐天皇のご病気のため、左右大臣(藤原忠平・藤原定方)が夜も伺候した。

  • 『東寺長者補任』同年9月21日条:
    広隆寺において、孔雀経法を修させた。醍醐天皇のご病気を祈るためである。

醍醐天皇の譲位

  • 『日本紀略』延長八年(930)9月22日条:
    醍醐天皇が退位し、皇太子寛明親王に譲位した。
    左大臣藤原朝臣(忠平)が摂政となり、内侍が剣璽を執って宣耀殿に参り、これを奉った。申の刻に警固を行い、酉の刻に固関使を召した。その日のうちに蔵人を補した。

  • 『貞信公記』同日条:
    醍醐天皇の御譲位があった。

  • 『吏部王記』同日条:
    「左大臣(藤原忠平)を召し、太子(寛明親王)に位を伝えると仰られました」という。
    未一刻、内侍二人が麗景殿に参った。御前に当たる簾の外に伺候した。上(醍醐天皇)は蔵人二人〈皆、髪を上げていた。〉を介して剣璽の筥を執らせて、簾中から内侍に授けた。内侍は剣璽を執って伺候した。

朱雀天皇の弘徽殿遷御

  • 『吏部王記』延長八年(930)9月22日条:
    亥二刻、今上(朱雀天皇)・皇后が弘徽殿に遷った。まず、天子が常寧殿に遷御した。筵道を鋪かなかった。
    右兵衛佐藤原朝臣師輔が抱いて御した。左兵衛佐藤原朝臣敦忠が御衣の後を持った。左大臣(藤原忠平)及び大納言(藤原)仲平卿は後陣にいた。女蔵人がこれに続いた。殿の侍臣もまた、これに続いた。左権中将藤原伊衡朝臣・右権中将藤原実頼朝臣が燭を手に取って前行した。内侍二人が剣璽を持ち、御前にいた。

醍醐天皇の御遺誡

  • 『吏部王記』延長八年(930)9月22日条:
    あるいは言ったことには「今上(朱雀天皇)が還って左大臣(藤原忠平)に語って言ったことには『太上皇は私に五つのことを命じた。朕は指を折ってこれを数えた。ただ、そのうちの一つを忘れてしまった。その他の四つのことははっきりと覚えている〈神祇を敬え。法皇を奉れ。左大臣(藤原忠平)の言う事を聞け。古人に情けをかけよ、である』という。〉」という。

醍醐天皇の崩御

  • 『貞信公記』延長八年(930)9月27日条:
    亥三刻、先皇(醍醐天皇)の御車が右近衛府大将の曹司に遷御した。

  • 『貞信公記』同年9月28日条:
    この夜、太上法皇(宇多法皇)が先皇(醍醐天皇)を労問するために右近府に留まり宿した。

  • 『日本紀略』同年9月29日条:
    卯の刻、宇多法皇は右近衛府にいらっしゃった。
    未一刻、太上皇(醍醐天皇)は崩じられた。

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