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しょくざい 3
以下の記事の続きです。
3
アクアリウムショップで姉さんは金魚を眺めていた。そいつは眼球が肥大した奇妙な形相をしているけど、ひれが蝶のようにひらひらと揺蕩って妙な神秘性を醸し出している。私は床にしゃがみ込み熱心にそれを眺める後ろ姿にむかって問いかける。
「ねえ、ほかにいくらでも魚はいるのに、どうして金魚なんて眺めてんの?」
返事はない。朝と同じだ。姉さんの言いたくないことを私はそれ以上追求しない。でも今日に限ってはいつもと違い、姉さんは何かを決心するようにその先を語り出した。
「うん、小学生の頃の道徳の授業でね、将来の夢を発表する時間があったの。クラスのみんなはアイドルとか、ミュージシャンとか、あと一流企業の営業マンなんて子もいたっけ、とにかくそういう小学生らしい夢を見ていたんだけど、私はなんて言ったと思う?」
「うーん、なんだろ、わかんないな」
「すこしは考えなさいよ。あのね、『金魚』って言ったの」
「金魚? って、今この目の前で泳いでる? 何かの比喩とかじゃなくて?」
「そう、まさにこの魚の金魚よ」
「そりゃまた、小学生の夢にしたって夢がありすぎるね」
姉さんが少し俯き沈黙が訪れる。フィルターを駆動するモーター音と水を跳ねる音だけ私たちのいるこの空間を満たしている。一秒が一分に引き伸ばされたようなその沈黙を突き崩していくように姉さんは訥々と続きを語りだす。
「金魚の赤は血の色、生命の色。私、昔からこんな身体でしょう? 肌も青白くて見窄らしくて」
姉さんは同意を求めるように私のほうを見つめる。その瞳孔の奥には小さな光がちゃんとある。こんなことを話して私に一体何を伝えたいのだろう、そんな胸騒ぎの中で私は「そんなことないよ」と言い、視線で先を促す。
「つまりね、金魚は私にとって生命の象徴なの。その溢れる生命力を無駄遣いしたい。ただ水に揺蕩って、光を浴びて、そんなふうに無駄遣いをしたい、その時の私はそんな贅沢を望んでいたのね」
その言葉を聞いて私の意識は急速に過去に引き戻される。
――私はもしかしたら魚の生まれ変わりなのかもしれないわね――
姉さんは小さい頃からいわゆる『喘息持ち』というやつだ。しかもけっこう重いやつで、ただ生活をしているだけでも息が詰まるから吸入薬も欠かせない、そういうレベルの喘息持ち。そして彼女は夜中に頻繁に発作を起こした。横になると息が詰まるようで夜も眠れない。ベッドの端っこに座って喘ぐ彼女の背中を私はいつもさすってあげていた。パジャマの布越しにもはっきりと伝わる彼女の浮き出た背骨のコツコツとした感触。私の腕の中で喘ぐ姉の姿を見るたびに、このまま姉は死んでしまうのではないかと心底恐怖したものだ。
――丘に上がってしまった魚。多くを望んでしまったが故に陸で溺れる羽目になった哀れな魚――
月の明るい夜だった。発作の落ち着いた姉さんはぼんやりと窓の外を眺めながら呟いた。耳の詰まるような真夜中の静寂が部屋を満たし、窓から差し込む月明かりが乱れたシーツの上に浮かんだ姉の姿を照らしている。
哀れな魚。それはどういう意味なのか、どういう感情でそれを言っているのか、その時の私には理解しかねた。それを想像するには当時の私はまだ幼すぎた。でも、その時の姉さんの声色も、表情も、吐息の熱も、まるで昨日のことのように思い出せる。
――私、もう海には帰れないのね――
子どもの私と大人の私の感情が交錯してゆく。姉さんが儚むこの世界で生きる私たち。そうだ、姉さんは大人になった今でも変わらずに苦しんでいるのだ、身体だけでなく心も。それを思うと月明かりの夜と同じように私の心は張り裂けそうになった。
でもどうして姉は苦しむのか。わからない。どうすればその苦しみを取り除いてやれるのか。わからない。私は無力だ。こんなにそばにいるのに
「それにね、この金魚、面白い顔をしてるでしょう? ほら、私ってブサイクだからなんだか親近感がわくのよね」
そう言って姉さんははにかむ。世界一美しいその笑顔に向けて、私はつとめて無表情で返す。
「ふうん。アタシにはよくわからない気持ちだけど、この金魚は目が大きいし唇の形も魅惑的だよ。姉さんに似て綺麗だと思う」
そう言って背中をさすってあげる。私も姉さんと同じ目線の高さで金魚を見る。姉さんも表情が少し崩れる。
姉さんにはずっと笑顔でいてほしい、そう思っていたんだ。
「フフッ、あなたのそういうところ、昔からずっと好きよ」
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