複製技術による美学について―プラトンとベンヤミンにおける―


序論

 美学とは、美の本質や構造を自然・芸術などを対象とし、経験的で形而上学的に探究する哲学の一分野である。そんな美学の中でも、複製技術というのは古代においても現代においても議論されている命題の一つである。今回は、そんな美学の中での特に大きな課題とされている複製技術――写真や映画など――についてを、プラトンの『国家』、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』の二作品を比較しながらその課題に迫っていくこととする。

1.プラトンにおける複製について

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 まず、プラトン――対話篇の登場人物上ではソクラテスであるが――は『国家』において、「詩のなかで真似ることを機能とする限りのものは、決してこれを受け入れないということだ。」と述べている。なぜなら、「聴く人々の心に害毒を与えるもののようなのだ。」と述べ、詩を批判している。
次に、手仕事職人という言葉を出した。「この同じ手仕事職人は、すべての家具を作ることができるだけでなく、大地から生じる植物のすべてを作り、動物のすべてを――自分自身を作ることができるだけでなく、さらにこれに加えて、大地と、天体と、神々と、すべての天体と、地下の冥界にかる一切のものを作るのだよ。」と述べた。それは存在しえないと質問者に指摘されると、「ある仕方でならば、そういったもののすべてを作ることができるだろうということに君は気づかないだろうか。」と述べた。
その「ある仕方」とは次のようなものである。「鏡を手に取ってあらゆる方向に、ぐるりと回してみる。そうすればたちまち太陽をはじめ諸天体を作り出し、大地、もしくは自分自身およびその他の動物、家具、植物のようなすべてのものを作り出すだろう。つまり、この鏡に映る太陽をはじめとした諸天体、自分自身、その他の動物、家具、植物というのは「そう見えるところのもの」すなわち写像であり、実際には存在しない物体である。そしてプラトンはこう続ける。「画家もまたそのような製作者であろうからだ。」と。画家は絵画を描写し製作することを生業としている。だが、その画家であっても、その被写体の絵画、すなわち写像を製作することはあっても、その被写体自体、あるいは物体本体を製作することはない。このような点から、プラトンは暗に画家を批判している。

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 次に質問者は、寝椅子づくりの職人を例に挙げて議論を継続している。寝椅子作りの職人の製品にせよ、他の何らかの手仕事職人の製品にせよ、それが完全なものだと主張する人があれば、その人の言うことは真実ではない。
「そういう製品とても真実在にくらべれば、何かぼんやりした存在にすぎないということになってもけっして驚かないだろう。」とプラトンは述べている。これは、プラトンが論じているイデア論のことである。イデア論とは、イデア界には実相(イデア)と呼ばれるこの世のすべてのものの本質たるもの、つまりものごとの「真の姿」「原型」がイデア界と呼ばれる世界に存在しており、この世に存在するすべてのものはこのイデアの似像にすぎないとされる理論である。この議論では、この寝椅子作りの職人または他の手仕事職人のつくる製品は、それ自体が完全なものではなく、寝椅子であれば寝椅子のイデアからの似像であるとしている。
とすれば、もし寝椅子作りの職人が作った寝椅子を被写体として絵画を制作する画家が存在するとしたら、まずこの世には寝椅子のイデアを製作した「本性(実在)製作者」たる神が存在する。そして、その寝椅子を製作した「寝椅子の製作者」たる寝椅子作りの職人が存在する。であるならば、はたして画家はどのような呼ばれ方をするのだろうか、とプラトンは疑問を提示する。そして、プラトンは次のようなことを述べる。
「真似(描写)の技術というものは真実から遠く離れたところにあることになるし、またそれがすべてのものを作り上げることができるというのも、どうやら、そこに理由があるようだ。つまり、それぞれの対象のほんのわずかな部分にしか、それも見かけの影像にしか触れなくてもよいからなのだ。」すなわち、画家が寝椅子を被写体として絵画を制作する際には、寝椅子を実際にあるがままに描写するのではなく、その寝椅子の見える姿をそのままに描写するのである。なぜなら、その寝椅子は見る角度が変わってしまえば、見かけは全く変化してしまうからである。そうなれば、見える姿でしか描写することができない。それを踏まえたうえでプラトンの議論は続く。
「画家は、靴づくりや大工やその他の職人を絵にかいてくれるだろうが、彼はこれらの度の職人の技術についても、決して知ってはいないのだ。だが、それにもかかわらず、上手な画家ならば、子供や考えのない大人を相手に、大工の絵をかいて遠くから見せ、欺いてほんとうの大工だと思わせることだろう。」とプラトンは述べている。上記のように、画家は一つの観点からしか被写体を描写することはできない。それならば、その被写体たる靴や寝椅子本体を製作する技術など持ち合わせていないだろう。にもかかわらず、画家はその被写体の絵画を制作したというだけで、いかにもその物体本体を製作したように画家が豪語していることに対して、プラトンはここで批判を提示している。

2.ベンヤミンにおける複製について

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 さて、複製技術時代になり、ベンヤミンは以下のように述べている。「どんなに完璧な複製においても、欠けているものがひとつある。芸術作品における〈いま―ここ〉的性質――それが存在する場所に一回的に在るという性質である。しかし、ほかならぬこの一回的な性質に密着して、その芸術作品の歴史が作られてきたわけである。(中略)これを複製に対して行っても仕方がない。」ここでは、完璧な複製技術によって芸術作品が複製されたとしても、その芸術作品のもつ〈いま―ここ〉的性質、つまりそれが一回的に在るオリジナルの真正さやそれに密着したその芸術作品が辿ってきたいままでの変遷、その歴史、その物質的な変化は複製には存在しえないだろうと述べている。またその物質的な変化を物理学的化学的に分析しようとしてもそのような歴史的変化がない複製に対して行なっても仕方がないであろうと述べている。
また、ベンヤミンは写真について次のように述べている。「まず、技術的複製は手製の複製よりもオリジナルに対して独立性を持っている。写真において技術的複製は、オリジナルの持ついろいろな面のうち、位置を調節することができ視点を自由に選べるレンズだけが迫りうる、人間の目には見えない面を強調することができる。」これは、複製においても、技術的複製であれば、オリジナルと独立することができる。写真であれば、レンズを切り替えることで被写体をより強調し引き立たせることができ、周りの背景も入れつつ撮影するなど視点を自由に選ぶことができる。このようなことは人間の目には不可能であり、複製技術である写真であったとしても、そこにはオリジナルたる要素を含んだ作品を製作することができるのである。
次にベンヤミンは、「ギリシア人は、彼らの技術水準のゆえに、芸術において永遠性の価値を作り出すことに賭けざるをえなかった。この事情のおかげで、彼らは芸術史上あのような卓越した位置、後世の人びとが自分の立脚点を定めるうえで基準となりうる位置を占めているのである。(中略)ギリシア人の芸術は、永遠性の価値を作り出すことに賭けざるをえなかったので、彼らにとってあらゆる芸術の頂点に立つものは、改良可能性の最も少ない芸術、すなわち彫刻であった。」と述べている。これは、古代ギリシア時代においては、複製技術といえば、ブロンズ像、テラコッタ、硬貨などの鋳造と刻印だけであり、ほかのすべての芸術作品は一回のみの複製が不可能なものであった。これにより、古代ギリシアの芸術は、後世における芸術作品の基準の一つであった。だが、ベンヤミンの時代になると、写真や映画の撮影技術も大幅に向上しており、その芸術作品の基準がその技術とともに対極に変化していったのがわかる。そうなることで、その芸術作品において本来ギリシア人であれば絶対に認めないような性質が芸術作品の性質として浮上してきた。それがモンタージュ可能な映画なのである。

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 ここでベンヤミンはチャップリンの『巴里(パリ)の女性』という映画を例に出している。
この映画を製作する際に使用したフィルムは、なんと12,500メートルもの長さであるが、完成した映画は、動画素材から編集つまりモンタージュされ完成に至っている。そして、編集者はどの映像、どのつながりを採用するかを選択でき、しかもその映像は撮影の過程で最終的にうまく撮影できるまで好きなだけ撮り直すことができたのである。
「したがって映画は、より良く作り直される可能性に最も富んだ芸術作品である。」とベンヤミンは述べている。撮影する際の映像素材などを再編集し、またもっとすばらしい芸術作品を作り出せるという点で映画の優位点を提示している。しかしギリシア人の芸術作品はそのようなことはなく、むしろ彼らにとっては改良可能性の最も少ない芸術、つまり彫刻こそが彼らの芸術の頂点に立っていた。
「モンタージュ可能な芸術作品の時代において彫刻が没落するのは避けられないことである。」とベンヤミンは述べている。そのような再編集にてより良い作品になる可能性が高い芸術作品が登場してくると、一個の石塊から作り出され作り直しのきかない彫刻はその優位性を失うのは必至のことであった。実際、ベンヤミンの時代もすでに彫刻は芸術の頂点には君臨していなかったのだろう。

3.まとめ

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 ここまで古代ギリシアの哲学者プラトンと現代の哲学者ベンヤミンの複製に関する理論を述べてきたが、1000年以上の時間の流れの中で複製芸術に関する価値観が大きく変化してきたというのは一目でわかる。写真や映画などといった複製技術の進化がその中でももっとも大きな変化であっただろう。だが、根本的に変化していないのは、オリジナルのオリジナルたる所以――一回的に在るオリジナルの真正さ――のようなものであった。それがプラトンであればイデアであり、ベンヤミンであれば〈いま―ここ〉的性質と呼べるものであっただろう。
また、プラトンは「上手な画家ならば、子供や考えのない大人を相手に、大工の絵をかいて遠くから見せ、欺いてほんとうの大工だと思わせることだろう。」と述べているが、これはベンヤミンが最後に「人類の自己疎外の進行は人類が自分自身の全滅を第一級の美的享楽として体験するほどになっている。これがファシズムが進めている政治の耽美主義化の実情である。このファシズムに対してコミュニズムは、芸術の政治化をもって答えるのだ。」と述べていることについて関連しているであろう。なぜなら、芸術作品は時として政治的プロパガンダに変化しうるからである。大工の絵をかいて遠くから見せ、欺いてほんとうの大工だと思わせるというのはすなわちファシスト政権において、大衆をその芸術の魅力で扇動することが可能であるということだ。この文章を最後に置いたのは、こうした全体主義の政治によって芸術作品がファシズムに利用されつつあるという当時の情勢へのベンヤミンの警鐘であることは明白である。プラトンやベンヤミンのこの議論は、現代においても十分議論の価値はあるだろう。

参考文献

プラトン(1976)『国家』(田中美知太郎訳) 岩波書店
ベンヤミン(1995)『複製技術時代の芸術』(久保哲史訳) 筑摩書房

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