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熊谷苑子『有賀喜左衛門 社会関係における日本的性格』東信堂

有賀喜左衛門は、1897年、信州辰野平出の地主の家に生まれ、京都帝国大学法学部に入学するも1年で、東京帝国大学文学部に入学した。1922年に卒業後大学院に進学するも、1946年に東京教育大学の非常勤講師になるまで雇用される職に着かなかった。1924年、27歳で松本の呉服商池上家の三女さだと結婚している。

有賀は27歳から36歳までのほぼ10年間、柳田民俗学への傾倒、イギリスの社会人類学やフランス社会学の吸収により研究手法を確立した。有賀は、岡正男の案内で柳田国男を訪れたが、調査手法の違和感から相対的に距離を置いたものの、柳田から完全に離れたわけではない。

1949年、東京教育大学文学部教授に就任、はじめて常勤職を得た。これは戦後の農地改革で、地主の地位を失ったからであろうか。東京教育大学を定年退官後、1957年、慶應義塾大学哲学科教授に就任した。

慶應義塾大学を定年退職後、1965年、68歳で日本女子大学学長に就任し、1973年、学長を退任している。日本女子大学学長に就任前後から、さだ夫人が病気がちとなり、有賀自身が介護にあたって神奈川県知事から介護賞を受けたが、1976年73歳で亡くなった。自身は1979年12月20日、肺炎のため82歳で死去した。

本書は、有賀の生い立ちも記載しているが、有賀の研究内容や、研究手法の紹介に主眼がある。

1930年初頭の日本において、小作農家と地主の関係が大きな社会問題となり、経済学者による論争が起きた。しかし、有賀は当然のごとく、それらの枠組みに依らず、地主小作関係を社会的形態と規定して論じた。

有賀が注目したのは、賦役と小作料が併存するという小作形態である。賦役とは労役であり、地主の生活のために小作が無償で為す労働である。賦役のみの小作を名子と呼んだが、数の上では非常に少なくなっていた。小作は賦役を提供するだけでなく、小作料(現物納または金納)も納める。

名子が賦役のみを地主に差し出すという社会関係は、経済変化に伴って、小作が小作料を納め同時に賦役を出す社会関係と変化した。一度に耕地のすべての貸与が開始されたわけではなく、少しずつ貸し出され、賦役の課せられる圃場も残る。そこでは現物納小作料と賦役が併存した。

有賀は、地主小作関係はオヤ・コ関係であり、小作料の原型は賦役であるという仮説を呈示した。「大家族における住み込み奉公人の賦役労働」→「賦役提供と小作料納付の併存」→「物納小作料」と変化してきたとする。日本の家族関係は非血縁の成員を含み、非血縁の成員と家長との間には一定の身分関係があった。また、内部において家長に集中的に統合し、外部において、上層の組織における首長に同族的性格で統合していた。

家は生活保障の単位である。有賀は、婚姻は家同士の労働力の交換・移動に焦点をあてて婚姻習俗を論ずる。ヨバイは万葉集にみえるよばい(呼ばい)、つまどい(妻訪い)と同じ言葉であり、書物で夜這いと記載されたため誤解が生じている。年頃の娘を持つ家には未婚の若者が毎晩遊びに寄りつく。そうしている間にその中の一人と相思になれば、他の若者は遠慮して寄りつかなくなる。

選ばれた一人が毎夜娘の家に通って寝泊まりし、親たちは黙許する。そのうちに子どもが生まれると婿方に嫁入りする。子どもを連れない花嫁はいない。なぜ婿入婚なのか、娘は重要な労働力であり、他家に出すことを遅らせたと考えられる。嫁入式中心となるのは近世となってからである。

村外との生活も多くなると、婿入婚が嫁入婚へと推移する。婿入婚の「手じまいの酒」は婿方から酒肴を持参し、嫁方からも相応の酒肴を供し、仲人および関係深い村の人々の立会いで共同飲食をしたが、物品の贈与はなかった。嫁入婚となると、嫁の持参品が次第に重視され、婿方からの贈与が付け加えられた。結納は相互飲食の発展した形態であり、結合の表象と位置付ける。有賀は、結納を売買婚の意味とするのは誤解であると指摘する。

実証研究を重視し、類型を抽出して比較分析をしている。小作の形態をタイプ別に分類した。また、柳田民俗学から離れ、モース『贈与論』の影響を受けていると言われるが、「婿入考」は柳田の方法論と類似していると指摘されている。

現代の農村は大きく変貌し、有賀が論じた状況にはない。しかし、農業の担い手について考えるうえで、また農業の将来を考えるうえで、過去の農家の生活実態を知ることは意義のあることではないかと思う。研究手法の説明等の一部を除けば平易な記述が多い。参考となる貴重な文献である。

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