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【イタドリ探訪記①】不味くはないけど美味しすぎもしない。

村は人々の何でもない日々の集積である


「イタドリを持っていくき、それでなんか料理作ってや~」
「かまんで。夕方うちに来いや。」

この二つ返事で【イタドリ探訪記】は始まった。

高知県の郷土食である山菜・イタドリを携えて大野見の村人を訪ね、
それを使った料理を囲みながら、彼らの暮らしや人生の断片を含味する。
そんな図々しい試みを【イタドリ探訪記】と名付けた。

日本の輪郭は、いつも歴史の教科書やメディアに載る強者によって
引かれるが、大野見という規模に拡大すると、
別に功績を残した者だけによらない。
むしろ、この小さなかつての村は何者でもない村人の何でもない
日々の集積そのものでできている。

華やかでも、派手でもないけれど、自然との隣接点に人の営みがあり、
やさしく、汚く、逞しく、尊い。
地に足がついた暮らしの中から醸し出されるそれらを
私は【イタドリ探訪記】に書き留めることにした。

百姓を訪ねる

この日に訪ねたのは、元大工の戸田健一さん(けんちゃん)と妻の道子さん(みっちゃん)。

けんちゃんは中学卒業後、大工に弟子入りをし、大工一筋の生活を50年送ってきた。
今は、職人としての大工職を退き、ある時は実家や知り合いの米作りや、またある時は町道の草刈り、さらにまたある時は山の共同管理(林業)や、知り合いから頼まれた大工仕事など、何でもする。
あえて肩書をつけるなら、百姓だ。

早速夕方、家を訪れると、知り合いが四万十川で獲ったというアメゴをけんちゃんが炭火で焼いていた。

三畳ほどの土間に足を踏み入れると「ちょっと待ちよってー」と、みっちゃんが5分もかからずにイタドリと練り物の油炒めを出してくれた。
そう、イタドリの料理で手の込んだ料理はあまり見かけない。

ごま油を引いたフライパンに、塩抜きしたイタドリ(200gほど)とニンニク(小6かけ)と練り物を入れ炒める。本だし(小さじ1)と昆布だしをひと回しして、粗挽き胡椒を多めに振りかける。

イタドリのシャキシャキの食感にからむ塩胡椒と出汁のきいた濃ゆい味付けは思わず缶ビールに手を伸ばしたくなる。

「食べれんもんじゃなかった」イタドリの味

子どものころ、放課後に山に分け入り、ポキッともいだイタドリに塩をつけておやつに食べていた。
そんな話を大野見のおじいちゃんおばあちゃんからよく耳にする。

味はというと、「食べれんもんじゃなかった」らしい。

イタドリは、収穫したのち、皮をはぎ、塩漬けにすることで、
昔から保存食として庶民の胃袋を満たしてきた。

「食べれんもんじゃなかった」

その言い回しには、どうしてか「不味くて嫌だ」というニュアンスがない。
水を飲むときにわざわざ「美味しい」と言わないのと似ている。
美味しくないのではなく、あまりにも日常に染み込んでいて話題にも上らない、みたいな。

「イタドリが好きでたまらん、ということはないけど、小さいころからよく食べてたなあ」


「じゃあ、今まで食べたものの中で一番おいしいものはなに?」

けんちゃん「なんやろね、、まあうんとええような牛肉らが美味いことない?山仕事したあとにみんなで飲むがで買いよった。ほんで、年末には自家用に絞めた豚肉らをおすそ分けしてくれたのを食いよった」

当たり前だが、その並びにはイタドリのイの字も出てこない。
どうやらイタドリはハレではなくケの日常風景に溶け込んでいる郷土食であり、文化そのものであり、そこに生きる人の暮らしを映し出す鏡みたいだ。

〈つづく〉

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