自分は汚れないまま正解を探す。それって自分の資産になってるの?

イタリア人とか、ラテン系の方とか、日本人より女性に声をかけますよね。
結婚してても。そこから不貞に動くかはそれは、人間性や価値観の問題で、声をかけられるほうの「自己判断」も含まれてて、お互いが決めて責任取る。

なんでイタリア人の話してんの?ですが(笑)
自己決定して、自分で責任取りますよね。もちろん人間なので嘘ついたり揉めたり、それはどんな国の人でも、どんな誠実なひとでも多かれ少なかれある。

ここで言いたいのは、責任を取らないでいい状態のために、

決定を自分でしない→そとの世界に正解を探す

っていう人が圧倒的に日本人は多いなと思うからです。

正解を探して、それに沿っているうちは、それが間違っていたときにも、

「自分の責任」ではないんですよね。
だから、自分が至らなさとか無力感に悩まされなくてすむ。

そして間違っていたら次の正解となるものを探しにいく。

でも、それって、確かに責任を取らなくてもいいけど、成果や経験としても、長い年月かけても、自分のもの(だれにも奪えない自分のなかの知見や考え)になってなくないですか?って思うのです。

~理論、~コーチング、などなど。
生み出した人はたぶん自分のものにしているのでしょうし、それを転々としたから自分がないという意味でもなく。

転々としたうえで、自分の一部としてかみ砕いているひともいる。ただやっぱり生み出した人のほうが強いでしょう。

だってもやもやと、葛藤と、構築と、ってたくさん感じてきて積み上げているから。たぶん、その正解部分をみただけじゃ、生み出したひとと同じ深みは出せない。

でも同時に人間、自分のなかの答えが自分のなかで最適解なんだから、たとえギリシア哲学者の言葉であっても、「それはプラトンさんの正解」であって、参考にしつつも、プラトンさん寄りの自分の正解、とかでいいと思うのです。

だから、大学などの専攻としての哲学とかはともかく、哲学を中心にしたイベントにちょっともやっとしたりします。

どんな社会問題にも哲学は関わってくると思うし、生活してりゃ、哲学しなきゃいけないことだらけなはず。

それをイベント化、非日常化することができるのって、普段どんだけ、悩みや深く考えることから距離をおける生活でいられるんだ?って。

学校行かない子はたぶん、(親から見てもめんどくさいくらいに)哲学的。意味を見出そうとしたり、普通よいと言われることのズレや違和感を感知しやすい。

言語化できるのには哲学が役立つのかもしれないけれど、そういう子ほど、ライトな哲学イベントのようなものには参加しないタイプだしね。

まわりにちょっとでもそれに気づくおとながいない時は、とっても苦しいだろうと思う。だって、まわりは「正解」を全面的に推してくるから。

正解持っていると楽。
でも、もやってもやって、「いまの自分にぴたっとくる答え」を見つける過程やその答えって、自分だけの資産だから、ひとと競争しなくていいよね。
正解探しがだれが早いとか、正解度の違いとか。

そういう資産をたくさん持てる、もやもや時間をこども時代に
自由にもてる環境(たぶん、これをできなかった大人が枠のなかから飛び出したくなって、よくやる自分探しの旅みたいな)を、ちょっと(悩み過ぎないように)目を配りつつ、隣で(なんも気にしてない風で)ゆったりしながら、親やまわりが醸し出せてたら、生きやすいんじゃないかなと思う。

いまはおとなも、正解探しで忙しい。
ちょっと、リタイアしたおじちゃんとか、惣菜やのおばちゃんとか、意外に一度こどもが会話すると気にいったりするのって、こういう緩さや、正解以外もまるっと抱え込む懐のひろさをピピっと感知するんじゃないかな。
正解見つけたい大人にとっては怪しく見えて(笑)通報と紙一重なのが難しいところだけれど。


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