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飯塚幸三氏と「名誉」による社会の正常化機構

エドマンド・バークは「名誉」を「公共精神に適う行いに対する報酬」、とくに公職者に対する金銭的私益と切り離された報酬であるとした。

この場合の「名誉」の源泉は国民にあり、公共精神に適う行い、即ち国民の意見に寄り添い国民の幸福を増進する行いをする者には名誉が与えられ、反対に国民の意見に反発し国民の幸福を減退する行いをする者には不名誉が与えられるという具合である。

これによって、名誉を得、不名誉を避けたい者は利己的ないし党利的利益の追求に走ることなく国民の意見に耳を傾け公共のために働くようになるのである。

ところで、近頃池袋で乗用車を暴走させ十数人の死傷者を出した飯塚幸三氏は政府で高い地位にあり、勲章で以て、その名誉を賞された人物である。

しかし、その事故後の行動を見れば、それが「公共精神」に適う行いをしてきた者がする事とは思えない。

この矛盾の原因は日本の「名誉の評価基準」が狂ってしまった事にある。

現代の日本において「名誉」を与えられるのは国民の意見に寄り添い国民の幸福を増進する者ではなく、高い地位にあり自らの瑕疵を立場の弱い者に押し付け責任を免れる才のある者達なのである。

こう書くと、これを日本特有の日本の土着的な文化に由来する弊害であると捉えられがちだが、案外、これは日本に古来から存在した習慣ではない。

例えば、江戸時代の郡上一揆において、隠蔽に動いた藩の側だけでなく協力した中枢の幕閣までもが失脚したように、近世以前の日本では立場が上になるほど、問題を放っておいたり隠そうとするような責任逃れの罪過は重いと評価され、世上の厳しい仕置きを求める意見は御上も無視出来ず、事実追及と処罰が為される事になる。

そして、もし責任を逃れたとしても、周囲の陰口や陰湿な嫌がらせは止まらず、毀損は一族郎党にまで及び、最後には自刃する羽目になってしまう。

偉ければ偉いほど重い責任を取らなければならなかったのが、明治くらいまでの日本の社会である。

粗相をした下人を手打ちにしたら家内不行き届きで自分も処罰されたりするのが近世まで続いた高身分の責務なのである。

このように江戸時代にはバークのいう所の「名誉による社会の正常化機構」が息づいていたといえよう。

一方、今日の日本を顧みればどうだろうか?

官僚の競争は熾烈であり、責任を取らされる者は出世できない。自ずから「責任を取る覚悟のある者」は競争から零れ、生き残るのは「責任逃れがのが上手い者」となる。

江戸時代では殿様であっても世襲であり、殿様など高い地位である事を以て、その実力や人間性が保証されるわけでは無い。故に殿様であれ公家であれ、本人の身振り、手腕がその評価に直結していたといえ、身分が固定化されることによって、却って、身分の高さ・肩書への評価はゼロベースのフラットなものとなっていたといえる。

逆に現代では身分の高さ・肩書の良し悪しが人物評価の大半を占めており、官僚制の性向と相まって、日本では【責任逃れが上手い者ほど名誉が与えられる】というバークのいう所とは真逆の”社会を立ち行かないようにする名誉の機構”が存在するといえる。

つまり、今回の事件は飯塚幸三氏が悪い人間というだけの話ではなく、官僚組織(大企業なども同じかもしれない)で出世を目指す人間を必然的に責任逃れと責任の押し付けをする人間へと作り変える【人間を腐らせる環境】が日本政府の中枢上層部に存在するという致命的な問題の一端なのである。

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