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スケープゴート小考

『神、人を喰う』(六車由実/新曜社)に概要が詳しく紹介されているが、愛知県の尾張大国霊神社に「儺追(なおい)祭」という祭礼がある。岩手県黒石寺の蘇民祭や岡山県西大寺の会陽と似た裸祭りだが、祭の次第は時代によって変容しているものの、選ばれた特定の人を打擲して形式的に追放していたと言われ、一種の厄払いの祭である。儺追祭の名称も、おそらく追儺(ついな)から来ていると思われる。この選ばれた人(儺追人)は、古くは恵方で生け捕りにされてきたそうで、祭の発端からかなり手荒だったようだが、江戸時代中期に奉行所のテコ入れがあり、儺追人は金で雇うようになった。そして現在は志願制になっている。

尾張大国霊神社

この祭の概要を見て思ったのは、これが典型的な「スケープゴート」であるという点である。この祭の起源を人身御供に求める言説が江戸時代にあったようで(創作のようだが)、なかなか興味深い祭である。
スケープゴートとは古代ユダヤで、年に一度人々の罪を負って荒野に放たれたヤギ、贖罪のヤギで、転じて責任を転嫁するための身代わり、あるいは不満や憎悪を他にそらすための身代わりの意となった。J・G・フレイザーは『金枝篇』の中で、一巻を割いてスケープゴートを論じている。磔刑に処されたキリストや、ホロコースト下のユダヤ人はその典型であろう。

十字架のキリスト

日本の民俗社会では、特定の富家に「憑き物筋」のレッテルを貼って差別することがあった。小説『狗神』(坂東眞砂子/角川文庫)がわかりやすい。村八分にもそういう側面があったかもしれない。
あと、これはかなりデリケートな話題だが、学校のいじめにもスケープゴートが見て取れる。恐喝や暴行といった犯罪行為は別として、無視や仲間はずれ、嫌がらせとしての窃盗(もの隠し)には村落社会の差別と似た構造が浮かび上がらないだろうか。このあたりは『排除の現象学』(赤坂憲雄/ちくま学芸文庫)に詳しく論じられている。
いじめや差別は非常に胸糞悪いものだが、それが無くならないのは社会構造にも原因がある気がする。部落差別が今なお無くならないように、前近代から続く差別意識はなかなか払拭できないようだ。差別撤廃には排除≒差別の構造を教える必要があると思うが、現状の道徳教育では不充分である。
余談だが、身体障害者差別は穢れ思想のひとつである「五体不具穢」が根底にあるような気がしている。
さて、今回はスケープゴートについて少し考えてみた。人間社会は何らかの形でスケープゴートを必要としているようである。それがモノ(ヒトガタ)などなら良いが、人がその犠牲になるといじめや差別、犯罪につながってしまう。なかなか難しい問題である。


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