第41回: 行列の意味とその源 (Sep.2019)

 かつて数年を過ごした "アジアのハブ" を久方ぶりに訪れた。ふと気付けば会社を畳んでインドに居を移して以来、全く足を踏み入れていなかった。目をつぶっても歩けたはずの都心には見慣れないビルや路線が増え、空き地が広がっていた郊外には高層の公営住宅が林立し、わずか3年の間にも目を見張る開発が進んでいた。

 ただ、インドの日常に馴染んだ目には街並みの綺麗さ以上に、統制の利いた人々の動きが気になって仕方がない。朝の通勤時間帯、駅から続く一筋の綺麗な行列は、オフィスビルのエレベーター待ち最後尾でピタッと止まる。東京にも似た光景はあろうが、一様にエリート然とした多彩な人種の若者が、ピカピカのロビーを脇目も振らず行進してオフィスに吸い込まれていく様子には感服するしかない。昼休みのHawker Centreの人気店前も、夜の繁華街のタクシー乗り場も、誰もいない早朝の赤信号を待つ車列も、どこもかしこも秩序正しく破綻がない。蒸し暑さや隣国から流れ込むHazeは避け難いが、夕方になればグラスを傾ける仕事帰りの男女が街角に溢れ、改めてこの地に人が集まるのも分かった気がする。

 ルールも規制もその時その場の交渉次第、より論理的で創造的な主張を通した者が勝ち、のインド。生まれながらの不平等も含め、お行儀よく並んで待っていれば必ず順番が訪れる、などという前提はない。空港や銀行など局所的な場面を除けば、外国人がインド人と同じ行列に並ばされる機会は殆どないが、とはいえ特別に優遇されているわけでもない。国内髄一のコスモポリタン・Bengaluruですら絶対数から言えば所詮はnegligible minority、得たいものを得ようとすれば、十二分なDiversityが想定されているインドの土俵でインド人と互角以上の自己主張・自助努力を求められることになる。

 順番が回ってこないことが分かっている行列に並ぶ日本人などいまい。テーマパークでもデパ地下の菓子屋でも、待ち時間が明示されるのが半ば常識となった日本。行列を為す者は共通の目的を持ち、互いに予測可能な行動原理を備えるからこそ渋滞予測が成り立つが、言葉も常識も、基礎となる体験すら大きく異なる当地はその前提を大きく欠いている。エスカレーターの前で一歩を踏み出すタイミングがなかなか計れず、後続の迷惑も気にせずその場に立ち尽くす家族連れが続出する休日のモールを見れば、むべなるかなさもありなん。高齢の家族に動く階段を体験させることが、その日その場を訪れている目的だったりもする。

 拡大する消費需要に供給が足りている分野が殆どないインド。街中で行列を目にすれば、まずは並んで優先権を確保してから、何の行列かを確認するのが自然な振る舞いでもある。悠久の時間を生きる者の中には、どこに繋がっているかいつ順番が回ってくるのかよりも、ただ行列に加わることを楽しみとする輩も居る。そんな行列の中、誰かが誰かを抜いて喧嘩が始まったり、なかなか前に進まないことに抗議の声が上がったりすれば、これに同調したり反論したり仲裁したり、といった自由気ままな主張が次々と引き起こされてChaosが生まれる。蟠りの原因は何か、どこに向かって何をすべきか、誰も何も意図しないままChaosを楽しむ為のChaosが広がっていく。一事が万事、インド人が集まるシーンでこのメカニズムが働いているとすれば、その場の表面的・表層的な事象をいくら分析したところで到底、その真相理解には至らない。

 成長鈍化が大いに報じられる当地だが、この統率困難な群衆が依然としてプラス方向に5%超の巡航速度を維持している実態の貴さは計り知れない。インドを一括りに表す最小公倍数や最大公約数をどうにか見つけ出したい、という日本からの調査要請は絶えないが、行列の意味ひとつをとっても日本人の常識的な期待が通じない世界。無理やり導いた最小公倍数 / 最大公約数が、実は誰にも当てはまらない全くの虚像だった、という失敗例も繰り返されている。インド人が列を為してまで求めたいものは何なのか、行列の源をいかに創出できるかは、やってみないと見えてこない。

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