見出し画像

失恋する私の為の人生見直し映画コラム  ⑥ 「8 1/2」その2

本当はそれだけじゃない

さて、大学時代の私が初めてこの映画を見た時、半分くらい寝てしまったので、中途半端にしか理解出来ず、妻と愛人の間で揺れ動くフェリーニの都合のよい願望の話、みたいな浅薄な見方をしてしまっていたが、本当はそれだけの話ではない。今回見直してみて、やっと全貌が明らかになった。それにしても理解出来るまで三度も見ることになるとは・・・。

まず、最初はあえてなんの予備知識も頭に入れず、見始めた。チューハイやアイス、ポテトチップスを用意してのカウチポテト状態。部屋も暗くして準備万端。リラックスモードでどれだけ覚えているか検証するつもりだった。

始まってからしばらくは、イタリア語の洪水に酔いしれた。やっぱりいいなあ。寒いし家に閉じこもりっぱなしだから、異国の雰囲気を感じれるのはいい。ただいかんせん酔いしれすぎてしまった。何かここは覚えているな、と思った箇所まで来たら、もうラストシーン近くまで話が進んでいた。うっかり横になってしまい、私はまたしても、同じ箇所から寝てしまっていたらしい。

フェリーニ自身をそのまま投影した、主人公の映画監督グイド(マルチエロ・マストロヤンニ)の妻ルイザ(アヌーク・エーメ)が愛人カーラ(サンドラ・ミーオ)を見つけ露骨に嫉妬にかられた表情をする箇所だ。眉間にシワを寄せて、険しい顔で相手を睨む、このアヌーク・エーメの表情が凄くいい。美人が臆面もなくこういう表情ができるのは感心する。彼女の飾り気のない性格が現れた印象的なシーン。ここまでは以前も何となく覚えていた。

二度目は、あらすじだけでも、頭に入れておこうと、宅配レンタルDVDに付随したものを読んでから見ることにした。

映画監督のグイドは次回作の構想に行き詰まり、肉体的精神的な疲労を覚え、療養するため温泉施設に出かけるが、そこにも、脚本家、プロデューサー、役をもらおうと押しかける女優等々が次々やって来て、気の休まるひまもなかった。

なるほど、そういう出だしだったのか、とやっと納得した。そして寝ないようにするためネットカフェに行って見た。

主人公の人生を彩った魅力的な女性達

主人公グイドは、43才の映画監督。結婚はしているが、子供はいない。そして、夫のいる愛人と不倫もしている。次回作の構想にしても、妻との関係にしても、愛人との関係にいたるまで、全てに行き詰まっている状態だ。

まず、グイドが療養する温泉地に愛人カーラ(サンドラ・ミーオ)が先に乗り込んでくる。コケティッシュな魅力を持つ、妻とは違うタイプの美人。天真爛漫で無邪気で開けっ広げな性格。どこか乗り気でないグイドと違い、沢山のドレスの入った大荷物を運び込んで、ノリノリな様子。天真爛漫すぎてつい悪意なく自分の夫の話をしてくるので、グイドは興醒めする。そんなグイドに「ねえ、あなたはどうして私といるの?」と聞いてしまう、カーラ。

その他、理屈ばかりを弾丸のように繰り出してくる脚本家、などが頻繁に現れ、うんざりするような、でも逃げ出せない状況の中、グイドは過去の思い出や、こうありたいと願う理想の世界に救いを求め、自分の脳内の想念の中に逃げ込むのだった。

なんとなく、寂しくなって、グイドは妻ルイザ(アヌーク・エーメ)も呼んでしまうのだが、妻は、愛人の存在に気づいていて、終始不機嫌を隠さない。

それで、私の覚えていた、妻の嫉妬の表情のシーンになるのだ。

グイドのこの後の妄想が豪華絢爛で、今回すごく好きになった。

グイドは想像する。もっと二人が仲良くしてくれたらいいなあ。そうこんなふうに・・・。妻と愛人はにこやかに挨拶を始め、相手のことを褒め合う。そうそれから・・・と、彼の妄想はエスカレートしていく。

理想の世界のはずだったが

吹雪が舞い散るクリスマスの日(おそらく)、グイドが大量のプレゼントを抱えて帰宅すると、大勢の女が彼を出迎える。子供時代から今まで、彼を愛してくれた、そして彼が愛してきた女達全員だ。

彼の帰宅を待ちに待っていた様子で、皆、満面の笑みで出迎える。家政婦のような地味ないでたちの妻は食事を整え、愛人は着飾って、彼の世話を焼く。その他(彼の思い出のシーンの中で登場していた様々な関係の)の女性達は協力して彼を風呂に入れ、出てきた彼の体を拭いてやる。

グイドはそんな女達の献身に満足して上機嫌の中、異変が起きる。

ある年齢に達した女達は、現役の「女」としての引退を余儀なくされ、この家の二階で余生を過ごさなくてはならない。それは、主のグイドが取り決めた掟であった。その取り決めに素直に従えない「彼の初めてのダンサー」がもう少しみんなと一緒に一階で踊らせてと、涙ながらに彼に抗議したことから、上を下への大騒動になる。

もう大人しく二階でいたらどう?と賛同する者。ひどい仕打ちね、と彼の横暴を批判する者、もう一度踊らせてあげて、と懇願する者。

騒ぎを収束させるため、女達を使う猛獣使いさながら、ムチを振り回すグイド。

「何とかして!」と皆、妻のルイザに助けを求めるが、ルイザは冷静に「いつものことなのよ。彼は騒ぎが大好きなの。」と言い、「みんな一緒で幸せね。」と自分に言い聞かせるよう笑顔をつくる。そして、這いつくばって床を磨きながら「初めは理解出来ずこんな生活が疑問だったけど、今はよくやっているでしょ。私もバカね。理解するのに20年かかった。」と、少し寂しそうにつぶやくのだった。

自分の妄想の世界でも、彼は、だんだん不安になってくるらしい。こんなふうに考えるのはまずいよな、やっぱり俺が悪いのかと。妻の寂しさもわかっているのだ、わかっているのに「君がもう少し辛抱してくれれば・・・。無理だろうな。」とお互いの気持ちが行き違う。

とにかく、逃げたい

自分が初めてこの映画を見た、大学生の時は、主人公グイドが何故こんなに(幻覚をみてしまうほどに)追い詰められていたのか、あまり理解はできなかった。でも、今はわかる。グイドは43才の中年男性。今から約50年前の1963年頃の四十代は今の時代の五十代位の立ち位置だったのではないだろうか?

中年になると、誰でも一つや二つ逃れられないしがらみみたいなものを抱えている。今現在五十代の私は、難なくそういうことがわかってしまう年頃となった。

私だってそうだ。自営業なので、精神的な自由さはあるが、一日丸ごと休める日なんて、年に数回しかない。だから、失恋しても旅行にだって出掛けられない。その前に、失恋した相手からも完全に会わなくなることもかなわない。もう逃げたい。多くは望まないので、ゆっくり昼まで寝ていられる一日が欲しい。

でも、その年で失恋程度で悩んでいられるなんて、お気楽ね、と思う人もいるだろう。お金の問題、家族の問題、健康の問題、職場の人間関係、親戚付き合い、介護の問題、老いていくことへの不安の中、そういう問題が否応なしに肩にのしかかってくる。

簡単には解決しない問題が山積み。でも、とにかく次の朝起きて出かけて行かなくては。人から見たらそんなことか、と思われるような些細な悩みでも、当の本人にとっては深刻なのだ。私は私なりの悩み。彼には彼なりの。

その上、グイドは今までの彼の作品を超える映画を作ることを期待されている。これに失敗したら、今まで自分が築き上げてきたもの全てを失ってしまうかもしれない。

救済者現る?

そこへ、彼の理想を体現した女性、クラウディア(クラウディア・カルディナーレ)が、後光を背負って現れる。

グイド曰く、若く美しく、古風で、少女で大人、完璧な女性だ。

彼女に向かって、全てを捨て再出発できる?と問いかけ、誘うグイド。

しかし、彼女は共感できないと突っぱねる。「誰も愛さない人なんて。他人に求める資格ある?」と可愛い顔して、意外と辛辣に言い放つ。

そうか、君も他の女と同じだ。と失望するグイド。

逆に、彼女に「あなたには出来るの?(全てを捨てることなんて)」と問われ、グイドは考え込む。

「何故こんなことに、どこで間違えた?」

私は今回、グイドのこのセリフに、共感し、親近感を覚えた。私も、このコラムを書くきっかけは、これを探っていくためだったから。

グイドは、ラストシーンに至るぎりぎりまで、考え続ける。

壮大な自分探しの物語。

すべては、嘘や妥協のない正直な映画を作るため。

感動のラストシーンはグイドが、いやフェリー二自身が出したその答え。

そして、三回目を通しで見たときも、私はラストシーンで涙するのだった。


追伸  2016年製作の「フェリーニに恋して」という作品があるのに最近気づいた。アメリカの二十歳の女の子がフェリーニ(の世界?)を探すため、イタリア旅行をするストーリーらしい。今このご時世、イタリア旅行など、夢のまた夢。世の中が良くなったら、イタリアに行きたいという夢がまたできた。まずこの映画も見て見たい。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?