ananの「セックス特集」に注文をつけるべき者は誰か

 ジャニーズ事務所所属アイドルの半裸写真を表紙にいただいた婦人雑誌ananの「セックス特集」は若い世代の女性を中心として、当該アイドルのファンである男女をその主要な読者として想定しているのだと、私たちは思うはずなのだが、狭い範囲であれ、先日来Twitter上でこの雑誌特集が話題にされたのは、上記ファン層の間でというよりは、むしろ「オタク」という言葉でひとまとめにされてしまうものの、彼ら自身がその言葉によって自身のアイデンティティを構築しているという側面もあるのだから、そう呼んで差し支えないであろう、若い世代の男性の間であったように思われる。

 もちろん彼らの「つぶやき」と呼ばれる言説については、その逐一を記録しているわけではないので、不正確なところもあるのだが、おおよそのところをまとめてみると、

「どうしてフェミニストはananの「セックス特集」には何も言わないのか。」

というもので、この言葉からは、セックス=思春期以来気になって仕方がない"エロい"コンテンツ、といった素朴な考えと、フェミニスト=性的表現に文句を言うオバサン、というこれもまた、数十年来フェミニズムに浴びせかけられ、一部の人々にフェミニズムの歪曲された一面的印象を根づかせるようなイメージの焼き増しから引用された思い込みとによって築き上げられた「俺の考えるフェミニスト」が「どうして(俺の大好きなアニメキャラクターには文句を言うのに)「セックス特集」には何も言わないのか」というメッセージが読み取られねばならないらしい。ところで、この一部「オタク」男性らの、恐らくは「戦略的」である素朴な問の答えは答えるに非常に易しいものなのだが、その答えに彼らの一部は納得できないようなのである。

 そもそも「フェミニズム」は一枚岩ではないし、かつて「冠つきフェミニズム」と田嶋陽子などが批判したように○○フェミニズムという幟は枚挙に暇がないのだが、それでも私が自分なりに、そんなものだろうかと考えている様々なフェミニズムの共通項として、「男」と「女」という生物学的な言説と社会的言説によって構築され、現実の社会においても構造的な暴力を生むにいたっている「性」とそれにまつわる言説について、特に「女」というカテゴリーを中心に批判的に検証しようとする思想であるということが言えるだろう。従って「フェミニスト」と自称していたり、そう呼ばれたりするアクティビストや作家、弁護士などが「女」の身体を性的に搾取していると考えられるような表現に対して文句を言うのは当然であろうし、そこではもちろん表現規制の問題であったり(「文句」と「法的規制」は別物であろうが)、「女」というカテゴリーとその身体は誰のものか、という問題も議論されるべきなのだが、それはフェミニストがたいてい「女」として、あるいはそうでない「性」であれ、「女」の身体が構造的な搾取を受けていることを問題視しているが故の問題提起なのであるから、一部「オタク」男性らは「戦略的」な問いというかたちをとって要求しているものの、「フェミニスト」がananの「セックス特集」に対して、ジャニーズ事務所所属の男性アイドルが半裸である点だとか、ましてや「セックス」特集という"エロい"名前のついた雑誌だからという点で批判せねばならない理由はどこにもないのである。

 どうして私がこのような当たり前のことをくどくどと書こうと思ったのかと言えば、それは先日、まさに上記一部オタク男性による「戦略的」な問いがTwitterで話題になった折、それに批判的に応答する、というか「戦略的」な問いとして、以下のようにツイートしたのだが、その私のツイートに対して「オタク」を自称すると思われる男性から批判的返答を受けたことが理由として挙げられる。私のツイートの内容は以下のようなものである。

「どうして一部「オタク」男性はananが男の半裸を掲載することについて、フェミニストにそれを批判するよう求めるのか。」

この問いはもちろん、一部「オタク」男性の主張に対する「戦略的」な問いであるのだから、男の身体が性的に搾取されていることを問題視するのであれば、フェミニストにお願いするような回りくどい手続きを経ず、自身らで声を上げればよいではないか、という「オタク」男性に対する私からの「アドバイス」として読まれねばならないのだが、某「オタク」男性から私に送られた「リプライ」は要約すれば、以下のようなものである、曰く

例の一部「オタク」男性による「戦略的」な問いは、「どうしてフェミニストは『宇崎ちゃん』を批判するのに、「セックス特集」を批判しないのか」というものであり、そのダブル・スタンダードを批判するものである。

もちろん『宇崎ちゃん』事件を根に持つ一部「オタク」男性が、表面的にはしないものの「戦略的」にフェミニストの「ダブル・スタンダード」を批判しようとして問いを立てたことを分かったうえで、私は上記のようなツイートで「オタク」男性批判をしたのだから、そんなことは言われるまでもねぇ、と言ってよかったのだが、傲慢な啓蒙家である私としては「アドバイス」を差し上げることとし、自身のフェミニズム理解をかいつまんで書き、フェミニストの問題提起の解説まで行ったのだが、その「オタク」男性は私の「アドバイス」へのさらなる返答として、フェミニズムが女の身体の搾取について問題化することを「ポジション・トーク」だと言って斬り捨ててしまったのだった。

 おかしいことに、彼は「オタク」男性らの建前であったはずの(あるいはそうでなかったのかもしれないが)「男の身体が搾取されている」という主張や問題提起をすることもなく、自らが「フェミニスト」の「ダブル・スタンダード」を批判したいのだということを隠そうともしないので、議論ともいえないその「議論」を私は投げやりに打ち切ってしまったのだったが、私はそうした後で、その同世代の「オタク」男性はじめ、フェミニズムに対して無理解、というか関心を持とうとしない者たちに共通して、

自分たちの生まれ育った時代は「男女平等の時代」である。

という意識があるのではないかと思うようになった。というのも彼(ら)と私の間にある深い淵は、「男女平等」という「現実」がありうるのかどうか、ということに対する認識の差によってつくりあげれているように感じたからであって、私たちの世代はたしかに「男女平等」、そして「多様性」が重要であるということをくどくどと教えられてきたのであるし、それは実際間違ってはいないのだが、まだ達成されていない「モットー」であったはずの「男女平等」はいつからか、どこかで「男女平等」という「現実」が存在しているという認識にすり替わっていたのではないだろうか。私が「オタク」男性たる彼(ら)と話していて、手応えがないように感じる理由はまさに、彼らが自分たちが実際には存在していない「男女平等」という「現実」を生きていると信じているからであろうし、そのような認識の人々に対して「男」と「女」のカテゴリーが持つ権力関係を説いたところで、「現実」の話としては受け入れられないだろうと思うのである。

 私は彼らのあまりに幼稚で楽観的というか、自己中心的な現状認識に辟易とする一方で、「現実」に苦しむ中で「女に生まれなければよかった」とつぶやいた友人女性のことを思い出し、「力づくで男の思うままにならずにすんだかもしれんだけ、わたし、男に生まれれば良かった」と歌った中島みゆきの歌を口ずさんでいる。私はそれでも彼らと対話をせねばならないし、「フェミニスト」がananの「セックス特集」を批判しなくてもよい理由を語ってゆきたいと思う。

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