非合理から生まれる宝物
イイネは活力!センサールマンの山﨑仕事人です!
今日は、「無駄なことって大事なのかもしれない!」っていうお話です。
あえての無駄
最近あえて「無駄」なことをしてみたりしています。
無駄ということ少し違うかもですが、「別にやらんでもええこと」と言いますか、「合理的ではないこと」と言いますか。
例えば家で一人でご飯を食べる時、テーブルにランチョンマットを敷いて食器を並べてコースターや箸置きを置いていただくみたいな。
こんなん全然やらんでええことです。
誰が見てるわけでもないし、洗い物は増えるし、正直無駄でしかありません。
少し前までの僕は真逆で、料理を作ればフライパンやお鍋から直接食べ、ご飯を炊けば炊飯ジャーの釜を取り出して直接食べ、しかもキッチンその場で立ったまま食べてました。
洗い物は減るし、時短にもなるし、合理性の塊です。
あとは、カーテンを開けたらちゃんと束を纏めてみたり、テーブルの上に物を置きっぱなしにせず一回一回ちゃんと片付けるとか。
手間が増えて不便になったりしますがやってみてます。
合理性の壁
なんでこんなことをやってるのかと考えたらあんまり理由は分かってません(笑)。
なんとなく「気持ちいいから」くらいのものでしょうか。
僕ってちゃんとしてるな~っていう自己満足的な。
あとはなんとなくですが、合理性だけじゃ“足りない”みたいな感覚があるのかもしれません。
僕は比較的どちらかと言えば合理的な側の人間だと思います。
でも、このままじゃダメだと。
このまま「僕はこういう人間だから」で進んでいっても上手くいかないような、今以上が望めないような、そんな嗅覚が働いて変わろうとしてるんじゃないかと。
そんな気がします。
合理的なのが悪いという話ではなく、合理性だけでどうにかなるほど僕には才能がないという話です。
非合理から生まれる宝物
お笑いなんかもそうで、無駄なことに面白さが詰まっていることが多々あります。
ネタ作りをしてても、真剣にネタのことだけ話してたら結構煮詰まっちゃうんですが、ネタと関係のない雑談をしてたらふと面白いことを思い付いたりするんですね。
漫才をやってても、本筋と関係のないアドリブが楽しくなって遊んでたらそっちの方が面白くなってきて、結局そっちメインで作り直したりするんですね。
無駄だと思ってたことが無駄じゃなくなることが多くて、たぶん無駄なことを完全に避けてやっていたら生まれていなかったネタやボケが山ほどあります。
この感覚を「人生」にまで拡大して考え出したのかもしれません。
極論、無駄なことは“しないといけない”のだと。
意識改革ですね。
今後は「そんなことしても意味がない」という考えを捨てて生きていきます。
さあ、面白くなるぞっ。
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