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雑誌を作っていたころ006

野武士集団

平凡社雑誌部は、四番町の自社ビル5階の半分を占めていた。皇居側から月刊太陽、太陽シリーズ、太陽コレクション、別冊太陽、月刊アニマという配列だ。
組織としては、月刊太陽が単独で雑誌1課、残りの雑誌が雑誌2課。
前者がお行儀のよいお坊ちゃんお嬢さん集団であるのに対して、後者はまるで野武士の群れで、公私ともにすごい人たちがいた。あまりにすごいので、この人たちだけはイニシャル表記にさせていただく。

たとえば太陽シリーズ編集長のMさん。彼はインドネシアの影絵芝居「ワヤン」の、日本における第一人者で、インドネシア政府から勲章をもらったほどの著名人だ。編集部の机のほかに、地下の図書室にも机を持っていて(強引かつ自主的に)、インドネシア関係の資料を、勝手にそこに集めていた。
5階にいないときはたいていそこで、他社から依頼された原稿を書く生活。これでサラリーマンとは、とんでもないと世間は思うだろうが、当時の平凡社では不思議でもなんでもなかった。

太陽コレクションの編集長Nさんは、元「美術手帖」の編集長。美術のことなら生き字引で、かつ編集の鬼。昔は嵐山さんの直属上司で、嵐山さんが結婚式を挙げたとき、式の最中に本人を電話口まで呼び出した人だ。

ぼくが1人で夜中に仕事をしているとき、体をこわして入院していたNさんが、病院を抜け出してやってきた。トイレに行こうと薄暗いエレベーターホールに出たら、白っぽい装束にざんばらの白髪、手には杖というNさんがいた。全身の毛が逆立った。

「俺の編集部はどうした?」というのがNさんの第一声。
ぼくはまだこの人と顔を合わせたことがなかったので、頭のおかしい爺さんが乱入してきたのかと思い、「どちらにお越しですか?」と聞いた。

すると「無礼者! お前は誰だ!」と一喝。
「たたた、太陽の、ししし、新入社員です」
と答えると、「俺は『コレクション』のNだ! 覚えておけ!」とボディブローのようなお言葉。ぼくの想像上の尻尾は、股の間で小さくなってしまった。

月刊アニマは、当時日本で唯一の動物雑誌だった。編集部のスタッフはみなアウトローのような風貌で、アウトドア命の面々だ。
よく編集部の床にレンガを積み上げてバーベキューをしては、総務課からお小言を頂戴していた。カーペットが焦げるからだ。

社員アートディレクターのEさんは、以前「国民百科事典」の見出し文字をすべてデザインし、オリジナルの写植文字盤を作った人だ。つまりタイポグラフィーまで自前でやりとげてしまったわけだ。書体のネーミングは、自分の名前をとって「エンチック」。

この人、あるとき編集部にあった剥製のカモシカの脚をもちだし、トレンチコートの袖に隠して市ヶ谷駅に出かけていった。何をするのかとついていったら、カモシカのひづめに千円札をはさみ、駅の窓口にそれを突きだして「新宿1枚」と低〜い作り声。
ドサッと音がして、覗いてみると、駅員が椅子から転げ落ちていた。

そういうすごいキャラクターに囲まれて、稼ぎ頭の別冊太陽がまともなはずがない。
編集長のTさんは、屈強なシェルパを思わせる、見るからに体力の固まりのような人だ。午前中はいっさい口をきかず、出社するなり持参の牛乳瓶2本を飲み干し、あとは新聞をむさぼり読む。

先輩編集者のSさんは、出張取材で必ずソープに行くという風俗マニア。それも安ければ安いほど嬉しいという、性病は大丈夫かいなと心配になる人だ。女性の下半身を金で買うことに対する貪欲さは、おそらく社内随一と噂されていた。
「ちょんの間」でピストン運動をしているときに、編集長に電話しなければならないことを思い出し、お姉さんに「悪いけど、ちょっとどいてくれる?」と言って怒られたと笑っていた。

専属デザイナーのMさんは、開高健氏の『オーパ!』の装丁者で、一晩に50ページは軽くデザインするという「線の魔術師」。この人の愛車はえらく古いボルボで、朽ちかけていた2台からマシな部品を集めてレストアしたものだそうだ。

これがぼくの2番目の職場である。
高鳴る胸の鼓動は一瞬にしてなりをひそめ、ふくらんだ期待はあっという間に不安に取って代わった。

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