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ライター・編集者、出版サポーター。基本的に「文字で伝えたいこと」をお手伝いする。出版社…

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ライター・編集者、出版サポーター。基本的に「文字で伝えたいこと」をお手伝いする。出版社の下請けから、自費出版のプロデュースまでが守備範囲。昨今はインタビューして本を制作し、流通までつなぐ仕事が増えている。「原稿は書けないが本は残したい」という人がメインのお客様である。

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「雑誌を作っていたころ」アップを始めます。

自伝「雑誌を作っていたころ」について自分の出版人生のうち、前半は雑誌編集者だった。 後半は書籍編集者、ライターの仕事が多くなり、それでも少しは雑誌の仕事をしていた。 最近はというと、商業誌の仕事はほぼなくなり、広報誌の仕事が少しあるくらいだ。 それでも、やはり雑誌づくりはおもしろい。なんといっても「雑」なのだから、なんでもありの部分が楽しくて仕方がない。 そんなわけで、自分の半生を雑誌づくりの面から眺めてみた。 本稿はもともとmixi日記として書き始めたものだが、その後あ

    • 雑誌を作っていたころ089

      針のむしろネットブックが取材で大活躍していた時代の話だが、後にも先にもこんな大失態はないだろうと思われる事件を起こしてしまった。 あるPR誌(エイサーでもテルミーでもない)で広島、尾道の客先を取材するために、月曜日東京駅6時発の「のぞみ1号」で出発することとなった。担当の女性社員は同じ列車の別の車両に乗って、広島駅で落ち合うことになっていた。 実はこれが伏線だった。それまで、雑誌や書籍の取材は必ず担当者やカメラマンと同じ車両の隣り合った席に同乗して、打ち合わせや業界のよもや

      • 雑誌を作っていたころ088

        メルマガ「おちゃのこ通信」「雑誌」という定義に当てはまるのかどうかはよくわからないが、「メルマガ」の制作をお手伝いして16年になる。「おちゃのこ通信」という、ECショップオーナー向けの隔週媒体だ。メールマガジンという媒体はSNSに押されて廃れ気味のようだが、このメルマガは1号を読み切るのに1時間以上かかるという内容の濃さが特徴の媒体だ。その3分の1くらいをぼくが毎回書いている。 月額わずか500円でネットショップのオーナーになれるという「おちゃのこネット」の存在を知ったのは

        • 雑誌を作っていたころ087

          新谷のり子の場合「ザ・テルミー」で新谷のり子さんをインタビューすることになった。 ある年代以上の人なら「フランシーヌの場合」というヒット曲をご存じだろう。フォークソング全盛時代、70年安保で日本中が揺れていた1969年に80万枚を売り上げた曲だ。 その曲を歌っていたのが新人歌手の新谷のり子さんだった。ぽっちゃりした顔に似合わないアルトの声で、テレビにもよく出てきていた。 その後は姿を見なくなったので、よくある「一発屋」だと思っていたら、そうではなかった。なぜわかったのか

        • 固定された記事

        「雑誌を作っていたころ」アップを始めます。

          雑誌を作っていたころ086

          「tell acer」「ザ・テルミー」の仕事を紹介してくれた坂本さんは、一人のカメラマンも引き合わせてくれた。mixiで風小僧というハンドルネームを持つ岡崎さんだ。京橋に事務所を持っていて、カメラマンとしては珍しく、編集プロダクション的な仕事をしていた。彼がリーダーになって、編集者やライター、デザイナーを集め、自分が受注してきた仕事をこなすのだ。 その岡崎さんから電話があった。「エイサーっていうパソコンメーカー、知ってる?」と。「名前は知っているけど、詳しくは知らない」と答

          雑誌を作っていたころ086

          雑誌を作っていたころ085

          平台と輪転最近、「平台(ひらだい)」という言葉を知らない編集者に出会って驚いた。昔は常識というか、知らなければ編集者として満足に仕事ができないはずの言葉だったからだ。 少し解説すると、平台とは別名「枚葉機(まいようき)」といって、輪転機に対するもの。輪転機がロールぺーバーに印刷するのに対して、平台はシートペーパーに印刷する。輪転機は大部数で安価な印刷物に適しているが、平台は比較的少部数または精密な印刷に向いている。 なぜこれを知らないと編集ができないかというと、平台と輪転

          雑誌を作っていたころ085

          雑誌を作っていたころ084

          ラフレイアウト以前、同業のライターが宴会の最中にラフレイアウトを描いているのを見たことがある。酒盛りの中でよく集中できるものだと思うが、人には人の流儀がある。 それを見ているうちに、「いつからライターがラフを描くようになったのだろう」と記憶をたどり始めた。昔はライターと編集者の境界線が違う場所に引かれていて、ラフレイアウトは編集者の仕事だった。ライターは文字通り、原稿を書くだけでよかったはずだ。 そういえば、月刊「ドリブ」のギャラは「2、2、2.5、0.5」。カメラマンが

          雑誌を作っていたころ084

          雑誌を作っていたころ083

          取材の道具2008年3月のmixi日記に、インタビュー取材の道具のことが書いてあった。 取材時の記録、メインはノートである。サブが録音機。昔はテープレコーダーだったが、最近はICレコーダーになった。取材メモに使うには明らかにオーバースペックのEDIROL R-09という機種を使っている。ローランドというメーカーから想像できるように、これはオーディオ機材である。録音レベルを最高にすると、CDよりも高品質の録音ができるそうだ。この性能のおかげで、ノートに筆記したメモを補完するた

          雑誌を作っていたころ083

          雑誌を作っていたころ082

          会報誌「ザ・テルミー」あるとき、古い知り合いから連絡が来た。ぼくが「ドリブ」の編集者だったころにアルバイトで原稿を書いていたパソコン誌「RAM」の元編集長だった坂本さんだ。彼はライターとして活躍していたが、忙しいので少し仕事を他に振りたいのだという。「できることなら喜んで」と答えたら、さっそく依頼が来た。 仕事の内容は、ある会報誌の巻頭インタビューだった。取材をして原稿を書けばよいらしい。それならできるかなと思って引き受けたら、それからぽつぽつと仕事が来るようになった。「も

          雑誌を作っていたころ082

          雑誌を作っていたころ081

          先割り書籍を作るときはめったに聞かないが、雑誌を作るときによく耳にする業界用語に「先割り」というものがある。 これは何かというと、文章を後回しにして写真や図版、イラスト類とタイトル文字だけで誌面のデザインをすることだ。その方がデザインの自由度が高くなるからなのだが、雑誌ライターはできあがったデザインに合わせて指定通りの文字数で原稿を書かなければならない。 いつから先割りができたのかは定かでないが、週刊誌の編集部でアルバイトをしたことのある人に聞くと、昔の週刊誌では、活版ペ

          雑誌を作っていたころ081

          雑誌を作っていたころ080

          雑誌作りが始まる予感アスキーのムックを3冊作ったところで、その方面のムックを作る仕事は終わってしまった。「あわよくば季刊誌から月刊誌へ」と編集部では期待していたようだが、そこまで売上が伸びなかったようだ。 ぼくはその後も引き続き、「インターネットでお店やろうよ」のお手伝いで取材に出かけては原稿を書いていた。だがそれは雑誌作りの醍醐味からやや外れた仕事だった。単行本の仕事の一部分をやっているようなものだ。 そして仕事のメインは、単行本の原稿執筆になっていた。毎月平均2冊程度

          雑誌を作っていたころ080

          雑誌を作っていたころ079

          アスキーで働く アスキーという会社は、その黎明期からぼくの視界の中でチラチラしていた。パソコン誌「RAM」のお手伝いをアルバイトでしていたときはライバル誌の会社だったし、青人社が曲がり角にさしかかったときには、流出した編集者たちの受け皿になってくれた。  中でも最も大規模だったのは、「ドリブ」3代目編集長の渡邉直樹さんが扶桑社の「SPA!」「PANJA」を経てアスキーに移籍し、「週刊アスキー」を創刊したときだろう。たくさんの元青人社編集部員がアスキーに移籍し、一部の人は今も

          雑誌を作っていたころ079

          雑誌を作っていたころ078

          新谷のり子さんのインタビュー ぼくらの年代の人なら、「新谷のり子」という名前を聞けば、「あ、『フランシーヌの場合』の人ね」とすぐピンとくるはずだ。80万枚の大ヒットを記録した「フランシーヌの場合」は彼女のデビュー曲。1969年3月30日、ベトナム戦争に抗議してパリで焼身自殺をしたフランシーヌ・ルコントのことを歌った反戦歌である。温熱療法の会報誌で、ぼくはこの人をインタビューすることになった。  新谷のり子さんは北海道函館市生まれ。小さいころから歌うことが大好きで、小学校5年

          雑誌を作っていたころ078

          雑誌を作っていたころ077

          仲代達矢氏のインタビュー 運命の女神は完全にぼくを見捨てたわけではなかったらしく、ひとつが切られたら、まるで埋め合わせをするようにほかのPR誌の仕事が舞い込んできた。民間療法である温熱健康法の団体が出している雑誌だ。ぼくはこの雑誌の、おもに巻頭インタビューを担当することになった。  この雑誌ではいろいろな人を取材したが、印象に残っている人が何人かいる。その筆頭は、俳優の仲代達矢氏だ。ちょうど舞台「ドン・キホーテ」の7カ月にわたる全国公演の最中で、全133ステージというハード

          雑誌を作っていたころ077

          雑誌を作っていたころ076

          大失態 仕事にも「類は友を呼ぶ」という法則があるらしい。日本エイサーのPR誌を一生懸命にやっていたら、別のPR誌から声がかかった。友人のWebデザイナーからの紹介で、さるISOの認証機関が発行している機関誌の制作をお手伝いすることになったのだ。  ぼくに与えられた仕事は、ユーザーを訪問しての事例取材と、認証機関の専門家を取材しての記事づくりだ。前にPHP研究所でISO関連の書籍を作ったことがあったので、この分野はまったくの素人というわけではなかったが、それでも初めて知ること

          雑誌を作っていたころ076

          雑誌を作っていたころ075

          ユーザー事例の取材「tell acer」の誌面構成は、最初の4ページが新製品トピックスや発表会イベント、次の2ページが業界著名人のインタビュー、その次の2〜4ページがエイサー製品の導入事例、そして小さなニュースや次号予告という感じで推移していた。  ほとんどの取材先はエイサー側が決めてくれるので、ぼくら取材班はスケジュールを合わせて行動するだけだった。導入事例では地方取材が多く、官公庁や学校、企業がまとめてエイサー製品を導入した経緯を取材した。北海道から沖縄まで、ほぼ全国を

          雑誌を作っていたころ075