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瞑想 縄文アサ文化

前回書いたように縄文人は、定住しても農耕はせず、環境に対する負荷の少ないエコロジカルな生活スタイルを実践していましたが、アサやウルシ、ヒョウタンなど有用植物の栽培は行っていたようです。
福井県の鳥浜貝塚からは、縄文草創期のウルシの木材や、大麻繊維から作られた縄や布が見つかっていますが、これらの植物は外来種で、縄文人かその祖である旧石器時代人が渡来した際に、大陸から持ち込んだものではないかと考えられます。
また千葉県の沖ノ島遺跡からは、縄文早期の土器とともにアサの実が見つかり、秋田県菖蒲崎貝塚で出土した早期後葉の大型土器には、煮炊きされ炭化した20粒のアサの実が付着していました。
コメを主食とする前の原日本人は、アサの実を主たる栄養源のひとつとして利用していたのです。

アサはヒマラヤ北西部が原産地とされ、西アジアから中央アジアにかけての地域では約1万2000年前から栽培が開始されていたといわれています。
同時代の中国の陶器破片には麻紐を押し付けられた痕跡が見られ、エジプトでも同じ頃には麻布が織られていたようですが、もし縄文草創期以前の日本で栽培されていたとなれば、それよりもさらに古い麻利用となります。
アサの繊維から多くの縄や布が綯われ織られていたということは、意図的に栽培していた可能性が高く、そこには縄文人とアサとの間の永くて深い関係が窺い知れます。

縄文人のアイデンティティそのものとも言える縄文土器には、その名の通り縄の文様が施されていますが、まさしくそれがアサ縄の縄目です(諸説あり)。
月や太陽の動きを観察し、四季の変化を大切にしていた縄文人にとって、春分夏至秋分冬至の二至二分は特別な日で、土器や土偶を焼くのもそれらの日に合わせて、ムラビト総出の「マツリ」として盛大に炊き上げていたと思われます。
その折々の「マツリ」の炎に収穫したアサを大量に焼べ入れ、「麻酔い」の中で先祖の霊や神々と共に夜通し歌い踊り、特別で神聖な朝の陽の出を迎えたのではないでしょうか。
彼らにとってアサは、縄として、燃料として、食料として、衣服の材料として、また物質世界と精神世界をつなぐ聖なる媒介として、生活全般に関わる特別な存在感を持った植物だったのです。

アサの持つ邪気や穢れを祓う力は、縄文アニミズムから弥生シャーマニズムを経て、1万数千年後の神道イズムにまで受け継がれています。
神社のお祓いで神主が振る大幣(大麻 おおぬさ)や、拝殿の前に吊り下げてある本坪鈴(ほんつぼすず)の鈴緒はアサから作られ、祭りの神輿や神事相撲の横綱にはアサの繊維が垂らされています。
日本国家の総鎮守、伊勢神宮の神札は「神宮大麻」として日本全国で頒布され、氏子である国民から崇敬されています。
神道の筆頭祭司である天皇の即位式(大嘗祭)にあたっても、穢れを祓う大麻繊維で作った神衣(麁服 あらたえ)を纏います。
日本人にとってアサは「神の象徴」であり、神道の祭祀はアサ無しでは成り立たないのです。

庶民の一生も、つい最近まではアサのお世話になり通しでした。
出産時の女性はアサの葉を噛んで痛みを和らげ、生まれた赤ん坊はアサのように力強くスクスク育って欲しいと、アサの葉模様の産衣を着せられました。
農民の衣服も武士の裃(かみしも)もアサ布製で、下駄の鼻緒にも丈夫なアサの繊維が使われました。
お盆の入りと明けには、アサの茎の皮を剥いだ「おがら」が焚かれ、ご先祖たちの霊をお迎えし、お送りします。
アサの実は大豆より栄養価の高いタンパク源なうえ、必須脂肪酸も多く含まれ、七味唐辛子に入れるなど、日本全国で郷土食として食されてきました。
また痛み止めや食欲増進、皮膚病、便秘などに効く伝統薬としても広く使われ、昭和初期までは喘息治療用として薬局で大麻煙草が売られていました。

このようにわれわれ日本人は、一万年以上にわたる民族の歴史を、アサと共に歩んできたのです。
ここ数十年間は不幸にも、その縁が切れてしまっていましたが、21世紀に入りアサは再び注目されています。
そのことについては、次回に詳しく紹介したいと思います。

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