現実が惨憺たるものであればあるほど、理想はより至高のものとなる。ホイジンガ『中世の秋』を読む(2)第3−7章_騎士道をめぐって
前置き。
昨日(2024/11/03)、今日(2024/11/04)と新国立劇場でバレエ『眠れる森の美女』を観ました。もともとバレエにそれほど関心があったわけではありません。私にとっての舞台芸術に関する師匠のような方からお薦めをいただいたら、できるかぎり観にいくようにしています。
で、今回の舞台はまことに素晴らしいものでした。私が観たのは、11/3の池田理沙子のオーロラ姫/井澤駿のデジレ王子/米沢唯のリラの精/直塚美穂のカラボス、11/4の小野絢子のオーロラ姫/奥村康祐のデジレ王子/内田美聡のリラの精/直塚美穂のカラボスという2つ。昨日の井澤デジレの強靱な均整美と米沢リラの柔らかく温かく、同時にひんやりした身体造形、弾むような池田オーロラ、今日の小野オーロラの身体芯軸から爪先にまで前後左右に行き届いた美しさと舞台全体を動かす、ある種の支配的感覚(めちゃくちゃ褒めてます)、それを受けとめてきっかりしながらも柔らかみのある躍動にほれぼれする奥村デジレ、やや生硬さは残るものの手脚の長さを存分に活かした内田リラ、そして両日にわたってこの人でないとと思わせる直塚カラボスと、ほんとに充実緊密の舞台でした。
いや、なぜこんなことをここに書くのか。それはこの『眠り』がロシアのロマノフ朝讃美という性質を持っていること、そしてデジレ王子とオーロラ姫の描かれ方が、まさにホイジンガの描き出す騎士道理想と重なるように映じたからです。細かいところをいえば、第一幕の紡錘を持っている3人の里娘がそれを咎められて王に処刑を命じられるものの、王妃のとりなしでそれを免れるあたりも、『眠り』に先立つアレクサンドル2世暗殺事件を仄めかす感。それを“寛容な心”で赦免するところなども、今回の騎士道理想ともしかしたら重なるのかも、などと思ったり。
そして、何よりオーロラ姫とデジレ王子が結ばれるところ。よくよく筋を見ていると、それほど何か深い仔細があるわけでもないのですが、しかしオーロラ姫の処女性やデジレ王子の騎士的な描写は、まさにロマンティシズム。それを、音楽と舞踏で表現しているところに、この曲の魅力があると私は感じます。
そんなわけで、これを書いているタイミングと『眠り』を観たタイミングが重なって、19世紀初頭になお微かに残る騎士道理想への憧憬を思ったのでした。
さて、今回も引き続き、こちらを。
ホイジンガの『中世の秋』、今回は第3章から第7章まで。ここでは〈騎士道〉がテーマになっています。
摘 読。
中世ヨーロッパにおいて、近代の人がその価値体系の重要なものとしてみていたのが騎士道である。18世紀の終わりごろの人々、とりわけ初期ロマン主義の時代において、中世と騎士道を同一にみる傾向があった。もちろん、それは歴史学の進展によって、そうではないことが明白になった。実際のところ、13世紀には花咲く騎士道の時代は終わっていた。その後に続いたのは市民の商業力と、それに依存した王侯の財力とが国家や社会を動かす要因となった。その一方で、中世末期を政治-経済的な側面からみるのに慣れてしまった人も、当時の史料、なかでも物語史料を手にすると、どうみても適当とは思われないほどの広いスペースが、貴族とその活動の記述のために割かれていることに驚かざるを得ない。事実、貴族は社会階層としての優越性を失ったのちも、長い間、その影響力を社会一般に及ぼしていたのである。現実の生活において、貴族的な生活が社会を発展させる真の原動力とは、すでになっていなかった。それは、その時代の生活のうわべを飾るニスのようなものでしかなかった。にもかかわらず、それはそれはニスにすぎなかったわけではない。というのも、中世ヨーロッパにおいては、フランス語での「エタ」、ラテン語でいう「オルド」(ドイツ語でのOrdnung)はそれぞれの職掌・職業は神の配置を表現していると考えられていたからであり、その聖性の輝きに応じて、それぞれの役割が与えられているとみなされていたからである。ただし、そこで想い描かれていた社会のイメージは静的であって、動的ではなかった。
このような秩序のなかで、貴族が保つべき理想としての騎士道には、他の身分を貶めるような視線もある。が、同時に生活にあえぐ貧しい民衆への同情の表白もまた併存していた。そこには、根底において人間は全て平等であるという考え方があった。何となれば、そういった考え方はローマ法王グレゴリウス1世の言葉にもみられる。そういった言葉を過大評価する向きもある。しかし、留意しておかなければならないのは、ここでの平等は「まもなく実現される死後の平等」であって、現世での不平等を是正しようという意欲はみられなかったという点である。時として、詩において農民英雄のことを称揚するのも、貴族たるものは騎士道理想を遵守し、世界を支え、浄化せよと呼びかけられているのだということを言いたいがためである(ノブレス・オブリージュと同源であろう)。
フィリップ・ド・ヴィトリ『百合冠』においては、学問と信仰、そして騎士道が「三種の百合」として位置づけられている。とりわけ、学問と騎士道は神の法と人の法の秩序を支える二本の柱として、古くから捉えられてきた。学問が「知る能力」をさすのに対して、騎士道は「あえてなそうとする意欲」とみられた。どちらも尊ばれた。それは、人の豊かな潜在能力をみたいという、人々の願いでもあった。そのうち、より騎士道のほうが一般に広まり、強い影響力を及ぼした。それはなぜか。騎士道理想のうちには倫理的要素に加えて、人々の心をじかに捉え、誰にとってもわかりやすい美的要素が豊かに含まれていたからである。(以上、第3章)
さて、こういった騎士道理想は、そのすみずみに至るまで信仰に即した考え方に塩漬けにされてしまっている。この騎士道理想に支えられた貴族には、現実政治に関わる何らかのアイデアが、一つの期待ないし義務としてかけられていた。それは国王たちの和合にもとづく世界平和の追求、エルサレムの制服とトルコ人の駆逐であった。当時の現実を記述する文章には、騎士道理想とは懸け離れたようなことが数多く書かれ、時に思い出したように騎士道趣意にもとづく高貴な品性が嵌め込まれている。当時の人々は、このような鋳型に嵌め込んで初めて、継起する事件を理解できたのである。
騎士道理想は、美しい生活の理想としてはきわめて特殊な型である。それは美的理想であって、多彩な空想、心に募る感動を素材としている。ところが、それは同時にさらに倫理的理想でもあろうとする。ということは、敬虔と徳とに結びつこうとする。そうすることによって初めて、ある生の理想に高尚な位置が与えられるのだ。しかし、その起源は罪深い。騎士道理想の核心は美にまで高められた自負心だったのである。
テーヌは中世における中流階層ないし下層民の行為の原動力は利害にあったとし、貴族社会はそれに対して自負心であったという。しかし、同時に彼の描き出すところ、貴族社会においても至るところで恥知らずの私利私欲と自負心とが重ね合わせになっていた。しかも、戦いをこととする貴族にとって、勇武ということは自身の名聞、そしてそれを理想化する英雄崇拝と直結していた。アーサー王にせよ、アレクサンダー大王にせよ、それ以外にせよ、空想の古代世界と円卓の騎士の世界は、当時において区別されていなかった。そういった理想が、時に王侯や貴族の行為を方向づけることもあった。シャルル突進侯がブルゴーニュ侯としてメヘレンに入場した時、ある叛乱事件の処断に際して、ギリギリで恩赦を与えたことなどは、その一端である。
このように、騎士道理想は貴族たちの行為を正当化/正統化、さらにいうと美化するために大きな役割を果たした。敬虔と謙譲、真面目と誠実という色彩で騎士道は美しく描かれた。そこには、戦いにとっての基盤である闘争心、そこから派生する勇敢さや自己犠牲、こういった禁欲主義的なプリミティブな衝動のうえに騎士道理想は築かれ、男性的な感性というイメージにまで高められた。ギリシア語にいうカロカガティア(美と善が一体化している状態)として、騎士道理想は捉えられた。そして、同時にそれは私利私欲と暴力が隠れ潜む仮面ともなった。(以上、第4章)
この騎士道理想は、当時の貴族的生活の「あるべき姿」を象徴していた。それは、愛(第5章)、絆(第6章)、そして名誉(第7章)である。
禁欲というのは、そもそも満たされぬ欲望の倫理化に他ならない。愛というのは、その一つの、最大のあらわれである。とりわけ、その願望を清純なものと描くことによって、官能の霊気を直接的に肌に感じさせたのである。騎士道理想においても、処女の救出というモティーフが描かれる。それに苦しみながらも戦うという「高貴」なロマンティックなイメージが、騎士道理想においては(も、というべきか)ことさら重視された。こういったロマンティシズムは、中世においても(ややもすると、現代においても)繰り返し描かれている。そして、そういった愛のロマンティシズムの陶酔は、ドラマの上演やスポーツといった「遊び」のかたちをとった。それらは、嘲笑の対象ともなり得た。けれども、それらは当時の生活を彩るものとして大きな意味も持っていたのである。なぜか。それは、当時の生活が理想とは懸け離れて、「美しくなかった」からである。厳しく、無常で、悪の世であった。だからこそ、というべきであろう。そういった「遊び」のなかで騎士道理想が具現化されることを要請したわけである。(以上、第5章)
同様に、気高い勇気と誠実の夢に生きようとする、この大掛かりな遊びは戦闘競技という形式だけでなく、騎士団というかたちをもとった。この騎士団という存在は、キリスト教の教義によるところが大きい。それゆえ、信仰によって説明することも可能なのだが、一方で、これに類似するプリミティブなかたちの組織も、かつて至るところに存在した。この騎士団に参加する者には誓約が求められた。あるところでは、清貧と服従、さらに貞節、そして個人としての完成の4つが求められた。ここには政治のプランづくりから救済の志向に至るまで、あらゆる理想が流れ込んでいた。そういった騎士団は、貴族のクラブとしての性質も併せ持っていた。そして、その「遊び」を象徴するものは、騎士団内での職掌のごときものが設定されていたという点である。このような「組織」を支えていたのは、信仰や倫理次元での意義、ロマンティックかつエロティックな面、そして余興という面である。この3つは分かち難く結びついていた。これまた、美しい生活の夢であった。したがって、騎士団の内部でおこなわれることは、時に奇抜であった。それを真剣に全力を尽くしてなしつつ、同時に彼ら自身が求める理想を自ら嘲笑った。やはり、そこには理想と現実との乖離から目を背けることができないという事態があった。(以上、第6章)
このようにみると、騎士道理想など虚しい妄想でしかないとは言えるだろう。実際、当時の人々もまた夢に対して醒めた視線を持って生きる人々であた。しかし、当時に美に寄せる夢や高貴な生活という妄想もまた、人口や税金の数字といった現実とともに、文化の歴史に関係している。実際、近代市民生活の高級な形式は、すべて貴族の生活様式の模倣から出ている。
さて、騎士道理想の当時に話を戻すと、これは十字軍そしてエルサレム問題と分かちがたく結びついていた。エルサレムの解放において、騎士道理想は前面に押し出された。しかし、一方で十字軍は机上の空論に終わるか、致命的な失敗を招くかのどちらかであった。それを計画したのは、夢想家や空想好きの政治家たちであった。しかも、それは特別税を取り立てる口実にもなっていた。そして、遠征は実施されないことも多かったのである。
同じように、騎士道を謳いながら、実際のところは政治的宣伝をもかねたつくりごとで、一向に実現されることのなかったのが王侯の決闘である。決闘そのものは騎士道以前からあったことだが、騎士道文化はある流行のかたちを決闘に与えたというだけではあった。実際に決闘がおこなわれることはほとんどなかったようだが、現実におこなわれたときの最後の結末は記されていないという。
騎士道理想は、戦いにおける一つの「望ましい、あるべき姿」ではあった。しかし、それは現実の利害に勝るものではなかった。その意味で、騎士道理想が具現化されたのは「遊び」の空間においてであった。実際の用兵において、騎士道は何の役にも立たなかったのである。そしてまた、騎士道理想には描かれない経済的側面もまた、貴族たちの現実であった。貴族もまた金銭にょくにまみれた人たちであった。
騎士道は、もしそれが社会の発展にとってプラスになる高い価値を含んでいなかったなら、社会的・倫理的・美的観点からみて必然のものでなかったら、何世紀にもわたって生活の理想であり続けたはずはない。この理想は生活を美しく、大げさに飾る。その誇張にこそ、かつては理想の力が存していた。この理想こそが、中世の血みどろの激情を制御しえたとさえいえる。理想が要求する至高の度合いが高ければ高いほど、生活様式と現実とのあいだの不調和は大きくなる。その懸隔に目をつむることができたのが中世であった。その騎士道理想は、時代を経るにしたがって移り変わっていく。17世紀における貴族、そしてその後に登場するのがジェントルマンなのである。
私 見。
理想と現実が隔たっているというのは、今さら言うまでもないことだが、中世ヨーロッパにおける騎士道理想というのが、その最たるものの一つであるというのは、じつにおもしろいし、興味深い。ホイジンガは、理想が詮ずるところ、現実から遠く隔たったものであって、実際には真逆のようなことがほとんどであったということをていねいに述べる。しかし、同時にそこにはやはり騎士道理想というものは根づいていて、それが行動規範としての側面も有していた。それもまた現実なのである。
これらの章でホイジンガが明らかにしたように、多くの場合、理想は現実に道を譲る。しかし、その理想が「遊び」を通じて、しかもそれが虚構でしかない、あるいは必ずしも現実に生じるとは限らないことも共有しつつ、同時に「大事にされるべきこと」として、ある種の“約束事”の地位を保ち続けている状態、それが文化であるいえる。このような虚構性を持ちつつも、現実を方向づけるのが、文化であり、また理想である。その意味において、ホイジンガは上部構造が下部構造に規定されるという唯物史観を批判的に捉えているともいえそうである。もちろん、現実としての下部構造が理想や文化などの上部構造に影響しないなどと言っているのではない。むしろ、双方向的な関係性をみているというべきだろう。
このホイジンガが、中世における騎士道という題材を通じて描き出した理想と現実の懸隔と、その往還というのは、現代においても十分に考察に値するだろう。少し前の時代にはなるが、経済学者のマーシャルは“経済騎士道”という概念を提唱していたし、捉えようによってはアントレプレナーシップの議論も、ここに通じるものがあるだろう。そしてまた、そういった理想に奔りすぎること、より正確には現実を理想によって置き換えてしまう危うさをも、ホイジンガとともに考えることができるように思う。
追 記。
これを追記するのは、11/5である。したがって、『眠り』をみたのは一昨日と昨日になる。この感銘が大きかったので、以上をそちらに寄って書くことになったが、行きしなの新幹線のなかで考えていたのは別のことだった。
それは、日本における“武士”のありかたとのかかわりである。日本においては、貴族と武士は別のカテゴリーであるという認識が一般的である。もちろん、武士が貴族、もっといえば天皇を頂点とした位階構造に組み込まれていたのは明白だし、また僭称も含めて考えると、自ら「組み込まれようとしていた」とみてよい。
一方で、数年前の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で上総介広常が必死で文字を書いていたこと、今年の大河ドラマ『光る君へ』で双寿丸という架空の登場人物(実在の武将である平為賢の家臣という設定)も「文字など読めなくてよい」というような描写があったことを、いったんそのまま受け入れるなら、多くの武士はまだ十分に文字を読み書きできなかった(文字というのは、基本的に漢文をさす)。それゆえに、北条泰時は『御成敗式目』を制定したのだった。また、もともと貴族的性質を有していた源頼朝やその子の実朝などはともかく、北条氏で歌詠みとして認識される人物が登場するようになったのは、この北条泰時以降である。それと時を同じくして、鎌倉武士たちは仏教への帰依を強めていく。
『保元物語』『平治物語』、そして『平家物語』といった軍記物語という一つの文芸ジャンルが生まれたとされるのも、このころである。とりわけ『平家物語』は武士たちの合戦の生々しさと、名聞意識やそれと綯い交ぜになって現れる武士的な美意識が重なり合って、その後の日本文芸の展開に大きな影響を与えたことは周知のとおりである。こういった軍記物語において、敵を騙すことは日常茶飯事である。そしてまた、武士たちの行動原理は「二君に仕えず」といったような近世的なものではなく、「一所懸命」といった利養的意識であった。一所懸命でなければ、一族を養っていけなかったのである。能『実盛』の主人公・長井別当齋藤実盛は平家の武将として篠原の合戦で討たれるが、以前は木曾義仲の父・源義賢が一族の悪源太義平に討たれたとき、遺児・駒王丸(=義仲)を信濃の中原兼遠のもとに送り届けた源氏の武将であった。つまり、もともと源氏方だったが、領地安堵のため平家方に移っているのである。それが普通であった。そして、討ち死にを覚悟して平宗盛に錦の直垂を賜って、白髪を黒く染めて戦いに臨み、手塚次郎光盛に討たれた。それを描き出す能『実盛』は修羅能の名作である。そして、そこの根底にはやはり仏教が位置づけられた。それは浄土思想や禅などであった。
こういったかたちで、日本においても夜討ち朝駆け騙し討ち、さらに濫妨狼藉が当然であった武士の世界に、倫理意識や美意識が入っていった。もちろん、それはヨーロッパにおける騎士道とはまったく別物である。にもかかわらず、やはり生死や暴力が眼前にある世界において、それを理想化する、あるいは浄化しようとする志向は働いていたという点の共通性は、おもしろいところである。そして、それは建前でありつつも、現実の行動を律するものでもあった。それが失われ、庶民のものとなった時代が日本の近世、つまり江戸時代であったとみることもできよう。江戸時代は、戦闘者であった武士が官僚機構に組み込まれた時代であったともいえそうである。そのかつての武士への憧憬が美化されて歌舞伎という庶民の芸能に落とし込まれていったとみることは、穿ちすぎだろうか。そして、それを懐古的に近代化したのが“武士道”だといったら怒られるだろうか。
さて、世界各地で戦闘はやまないなかで、今の生活の基盤となっているのは“経済”あるいは“ビジネス”であることはそう異論のないところだろう。本来、利養専一のビジネス行為において倫理性や審美性が求められるという事象、これもまた今回読んだ騎士道理想の延長線上で考えることもできるはずだ。それは建前でしかない場合もよくあるし、同時に価値判断の規範として実際の行為に影響を与えることもまたしばしばみられるから。
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