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両極のあいだに中庸。しかも、固定的ではなく。アリストテレス『ニコマコス倫理学』をよむ(4)。

アリストテレスの『二コマコス倫理学』(朴一功訳、京都大学出版会)と納富信留『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)を交互に読んでいくという試みの第4回。

今回は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』の第4巻。巻といっても、現代的な感覚でいえば“章”に近いです。今回は、その他の〈性格の徳〉および悪徳と題されている。ここでは、具体的な状況に応じた中庸の可能性が論じられている。

私見交じりの摘読。

摘読に先立って。本章は、それぞれの状況における中庸が、どのように現れるのかを具体的に論じている。したがって、あまり一つひとつを詳細に採り上げず、したがって、私見交じりの摘読として書きたい。

※ 学会報告の準備に追われているのと、Manziniの翻訳をしないといけないのと、えらく長引いている咳のためという言い訳もあります(笑)

本巻では、以下の点に関する中庸がそれぞれ論じられている。章名を列挙してみる。

第1章 気前の良さ、浪費、けち
第2章 度量の大きさ、狭量、俗悪
第3章 高邁、うぬぼれ、卑下
第4章 名誉にかかわる名前なき中庸
第5章 温厚
第6章 人づきあいにかかわる名前なき中間の人
第7章 ほら吹き、真実を言う人、とぼける人
第8章 会話にかかわる種々の徳と悪徳
第9章 つつしみ

これら、一つひとつ見ていくだけでも、古代ギリシアの市民生活の状況を想起しつつ、現代とも変わらない部分があるものだと苦笑いとも微笑ともつかぬ感覚が湧き起ってくる。

気前の良さとは財貨にかかわる中庸であるが、これはいわゆる経済的な交換にかかわっている。ここでは、贈与、つまり手放すことに徳の重点が置かれている。その際にも、道徳的な姿勢だけでなく、財源の問題であったり、その人が置かれている状況であったり、そういった多面的な状況から議論が展開されている。

度量の大きさも、支出にかかわるものであるが、単に個人的な支出というよりは、他者を含めた公共性を含んだ支出である。しかも、これもまた当人の支出能力などの相応性も関係してくる。

第3章以下の内容もそれぞれひじょうにおもしろいのだが、一つひとつ書いていったのでは文字数がとまらなくなってしまう(笑)ことに、第8章にいたっては、私が住む生活空間ではあまり感じるわけではないが、古い歴史と伝統を持つ街であれば、こういった洗練というか機知というか、それなしではなかなかやっていけないかもしれない。これは、まさに線引きが動的である典型と言える。

※ 具体例、それぞれにおもしろいので、また後日に追記するかもしれません。

本巻は、冒頭にも触れたように、個々の状況における中庸のありようを探索的に論じている。唯一絶対の正解を提示するということを、アリストテレスはしない。それぞれの状況において、またその当事者の状態や関係性によって中庸といえるであろう範囲が浮き彫りになってくるという感じである。

この“極”を置いたうえで、そのなかで個々の具体的状況がどうであるかを見定めようとする思考法は、ヴェーバーの理念型概念にも近いところがある。言うまでもないが、理念型とはさまざまな現実事象から抽出された、まさに観念的に再構成されたモデルであり、ある種の観念的純粋型である。したがって、理念型がそのまま存在するわけではない。あくまでも、現実をみていくためのモデルなのである。
アリストテレスは、「善い」とはいえない極端な行為を“極”に置きつつ、どのような状況や関係性において、その行為が「善い」(=中庸)と言われうるのかを見定めていこうとする。
このように、“極”を設定したうえで現実に近づいていこうとする思考法は、かなり伝統的なものであるのかもしれない。

この、あまりにも現代的でさえあるアリストテレスの議論を読んでいると、確かにそのまま現代に当てはめてしまいたくなる衝動に駆られるのも無理はない。実際に、現代においてもそのまま議論できそうな部分も多々ある。ここがアリストテレスのすごさなのだろう。だからこそ、あまり小難しく捉えすぎないほうがいい部分もありそうだ。

それにしても、倫理学とあるので、高尚な道徳を想起してしまいそうになるが、むしろ道徳哲学であり、もっといえば社会のありようを問う営みであるということを、あらためて感じさせてくれるのが、この巻だと思う。そして、しばしば高らかに唱えられる「こうあるべきだ!」というのが、きわめて動的であるという点をも、あらためて考えさせてくれる。Ethicsにおける動的な均衡(←ある意味、矛盾をはらんでいる表現である)の可能性を問うているのが、ニコマコス倫理学の大きなテーマなのかもしれない。

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