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動的星座としての都市(圏)。ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(17)

ブローデル『物質文明・経済・資本主義』の読書会第17回のメモ。第1巻の第2分冊。今回から第8章「都市」に入ります。今回は「都市自体」の節を。

摘 読。

都市というのは、どこにあろうとつねに若干数の現実と過程を内包し、明白な規則性を持っている。その最たる点は、分業によって成り立っているということ、市(いち)なしにはあり得ないということ、そして保護と共生の両面を有する権力がなくてはならないこと、世界に向かって開かれた出口や遠隔地での交換、この4つである。

さらに、都市は日常生活にとって第一義的に必要な、農村と交わす不断の対話、都市にとって欠くべからざる人間の補給、都市のとりすました態度、他の都市との違いを目立たせようとする意志、多少とも遠隔の地との連絡網の中心に置かれる立場、それ自身の郭外地区や他の諸都市とのかかわりにおける関節としての役割、こういった「基本的言語」を兼ね備えているところに特徴がある。

したがって、人が大量に住んでいるというだけでは都市という条件を満たさない。都市は必ず周辺に農村を有した。あるいは、大都市の場合は小都市を有した。こういった都市系は中心となる太陽都市の周囲に小都市を取り込んでいて、それらのあいだには序列が形成されていた。この都市系の総重量と人口比を見ることができれば、都市化がどの段階で能率を発揮しうるのかを見定めうる、とブローデルは言う。ちなみに、16世紀初頭のオランダで50%を超えていた。18世紀半ばの日本で22%ほどであったという。

さて、農村と都市型中心との分業に目を向けよう。この分業は一度として安全に確定したことがない。農村が先で都市が後、あるいはその逆のどちらかというのではなく、相即的・相補的であった。1818年ごろ、アメリカのイリノイ州にいたモリス・バークベックは「いったん町が軌道に乗ると、栽培(culture / agricultureの意味=農業)が周辺に急速に広がっていき、その種類も多様化する。食料品はありあまるほどになる」と述べている。このように、農村と都市は《視座の相互性》に従った。こういった事例は、世界中のあらゆるところでみられる。

※ ブローデルがあげる一つひとつの事例はおもしろいのだが、文字数的に大変なので省略する。

その際、大都市と農村というふうに二分化されるわけではなく、《農村都市》と呼べるような小都市も数多く存在した。セビリアに近いへレス・デ・ラ・フロンテラという町は、「産物としては、ぶどう酒・小麦・油・酒が得られるに過ぎない」が、それだけで町民の生活を快適にし、その交通・工芸を活気づけるのに十分であると、1528年の調査に対して回答している。

実際に、都市の住民といえども、収穫期になると都市での職業や家を捨て置いて、畑仕事に取り掛かった。つまり、人のはたらきやその流れもまた流動的であった。反対に、農村が工業活動を分担することもあった。フランスのフランドル地方では、15世紀や16世紀以降は都市工業が大規模に周辺農村に向かって逆流していった。都市が貧しい農村労働者を、「自由に使える」安価な労働力として吸収していったわけである。ただ、これは都市化が進展している場合であって、都市化が進展していないところでは、農村は自力ですべてをやらざるを得ない状況であった。ロシアのように、大土地所有者が農奴を使って、収益の多い工業をあれこれ経営するケースもみられた。

さて、都市は今述べたような新来者の補充が利かなくなったら、立ち行かなくなってしまう。だからこそ、都市は新来者を引き寄せようとする。都市からの引き寄せもあったが、都市に向かおうとする人々も多くいた。都市の新知識、実質的あるいは外見的な自由、より良い賃金を求めて。そして、農村があるいは他の諸都市が、そういった人々を追い出したことで、都市に向かってくるケースもある。

都市が迎えたのは農村や他都市の極貧者だけではなかった。近隣、あるいは遠隔地の都市の富裕商人や引く手あまたな親方・職人、傭兵、操舵者、有名な教授や医者、技師・建築家・画家などなど。こういった新市民の出身地をみれば、都市の生活と結びついた広範囲にわたる空間の存在を明らかにできるだろう。この人材の引き抜きは強制的で、絶え間がなかった。というのも、都市では死亡率が出生率を上回っていたからだ。都市の成長は都市の独力ではなしえなかったのである。

このように都市というのは流動的 / ダイナミックであったが、一方で「よそよそしさ」も兼ね備えていた。というのも、とりわけ15世紀から18世紀にかけて、多くの都市には城壁が築かれ、窮屈で截然たる地形のなかに閉じ込められ、自らの生活圏をなす隣接空間からも切り離されていた。その最たる理由は、安全であった。海に囲まれたイギリスや日本の場合は、そういった必要性が薄かったから、城壁はほとんど築かれなかった。また、強大な力を誇ったオスマン・トルコ帝国のようなところでも、城壁はあまり存在しなかった。

ただ、それ以外の都市では、やはり城壁が必要だった。西ヨーロッパの諸都市の場合、それは《独立および自由をめざす意識的努力の外面的象徴》だったのである。一方、中国の都市もまた分厚く高い城壁を有していた。それは都市の安全というよりも入市税を得るためという側面もあった。さらに、外敵からの侵略の恐れがなくなると、この城壁は都市居住者に対する監視システムともなった。

こういった城壁は寸法に合わせて作るコルセットと同じで、成長するとコルセットを作り直した。城壁は絶えず都市の輪郭であり続けた。したがって、経済的・社会的な分割線としての役割をも担ったのである。その拡張は、西ヨーロッパの場合、少しずつ無秩序であった。そのため、その構成は複雑を極め、街路は曲がりくねり、結節点のありかは予想がつかなかった。そういった都市の成長に計画性が加わったのは、ルネサンスを画期とする。中世都市の曲がりくねった中心と並んで、碁盤目のような街区が発展していった。こういった碁盤の目のような都市構成は、中国や朝鮮、日本、インド半島部、アメリカ大陸の植民地の諸都市、ローマの諸都市やギリシアのいくつかのポリスに見られる。そうでなかったのは、イスラム文明と中世の西ヨーロッパであった。

西ヨーロッパでは、15世紀以降、都市の人口が急激に増加したこともあって、横にではなく、縦に都市が拡張していった。つまり、垂直に伸びていったのである。ヴェネツィアの場合は城壁がなかったので、横に広がっていくことができた。

さて、都市はすべて所与の場所で成長し、そこから離れることがない。その立地条件はさまざまであって、そもそもの最初の利点と不都合はいつまでもついて回った。ただ、その不都合は多大な利点でもって埋め合わせもされていた。そうでなければ、その場所に縛られる必要などなかっただろう。その利点とは、遠隔地としての立地条件に由来していた。海にせよ川にせよ、そういった位置的特権は都市の繁栄にとって必要不可欠であった。そういった都市と連動して無数の小都市ができたのも、当時の輸送の速力ないし遅さと関連している。いかなる都市も、移動する人馬を迎え入れては送り出し、貨物と人々を散らしては、あらためて他の貨物と人々を集めていた。この場こそが市であった。したがって、この市をみれば、移動の機能が浮かび上がってくる。

都市という都市の周囲には、人々や多様な財物がたくさん寄り集まった。それらの寄り集まりの一つ一つが都市の周囲に、しばしば遠方にまでおよび独自の空間をつくりあげていた。どの場合にも、都市生活が多様な空間と結びついていて、それらの空間相互は部分的に重なり合うに過ぎなかった。勢力が強い都市の場合、15世紀には途方もなく広い空間を巻き込むに至って、それらの都市が遠方までおよぶ諸関係の道具をなし、それらの関係は世界経済Weltwirtschaftの境界にまで達した。これらの都市が世界経済を活気づけつつ、自分たちもそこから利益を得たのである。

このような都市は、時の移りゆくままに、その大きさに応じてまちまちな範囲の空間に働きかけ、その生存のリズムによって膨れたかと思うと、次には凹むという動きを繰り返した。この集中と拡散の動きこそが、都市を生み出した。そして、その空間的な動きのなかで、郭外町(場末)も生み出された。これらは怪しくいかがわしいものではあったが、かといって職人など手工業も生まれたりした。ただ、それでもやはり人々の認識は「場末」であったのも事実である。

大中心都市から一定の距離に小都市が出現する。この空間の形態は、輸送の速度に応じてできあがるので、規則的な間隔を置いて、一連の寄港地や宿駅として生まれた。これらの中心都市と小都市が協力関係を結んで、いくつかの大きな拠点を有する都市複合体 / 都市圏をなしていた。これらの機能的連繋・従属については、一連の組織図として描き出すことができる。しかし、交通路の変更や輸送速度の進展によって、この組織図は変動した。つまり、途中の宿駅が飛ばされ、廃れていくというようなことは珍しくなかった。こういったダイナミズムは、経済生活の一般動向に原因があった。この動向によって、都市網の二次的な地点は養分を吸い上げられ、主要地点ばかり肥っていく結果となった。しかし、これらの重要地点も、世界の規模が拡大されるにつれて、それぞれのあいだで都市網を形成していった。

さて、最後に。こういった都市はすべてそれぞれの文明の所産であった。都市には原型がある。イスラム文明圏であれば、イスラム都市の型があったし、キリスト教徒の街区であれば、別の都市が存在していた。ここではイスラム文明圏における都市の様相が描かれているが、次の節では西ヨーロッパの諸都市の独自性へと思索が移っていく。

私 見。

ここもひじょうにおもしろかった。ブローデルの、時間と空間という二軸の統合的把捉がフルに活かされている。

表題にもつけてみたが、都市というのは孤立的に存在しうるわけではなく、農村であったり、周辺に生じる小都市であったり、そういった場所と繋がったり離れたりして、星座(constellation)を形成していく。それも、動的に。だから、都市あるいは都市圏をdynamic constellationと表現しても、ブローデルの論旨から外れることはないだろう。

同時に、ブローデルが描き出す都市圏は、ほぼ必ず中心となる大都市が存在する。実際にそうだろう。そして、それは経済における速度と関連しているという点も、決して大きくない地理的範囲を持つ日本でも言える。20世紀初頭においては、工業や商業の中心地たりえていた大阪が、今となってはそれも残影にすぎないくらいになってしまったのも、大阪の内部的要因という以上に、移動や輸送などの速度が向上したことで、東京に吸われていったという説明が可能だろう。

こう考えると、ブローデルの在世時にはほとんど想定されていなかった、インターネットやDXといった技術的事象とそれによってもたらされる社会的・経済的な動向の変容が、これまでの都市圏のありようにどのような変化をもたらしうるのか、いくばくの興味もわいてくる。マンズィーニがLocalityを重視しながらも、ITなどの技術的変化に対して積極的であるのも、こういった文脈から考えてみると、新たな〈都市〉あるいは〈都市圏〉のありようを考える際の手がかりとなるかもしれない。

さらに、ここでの議論は経営学的にも敷衍可能だろう。私は、Ecosystem-orientedなアプローチに経営学の新たな可能性を見いだしたいと思っているのだが、この節での議論は、さまざまなアクターが関係しあって、それぞれの欲望や期待を充たしつつ、さまざまな価値が循環しているという様相を描き出すうえで、示唆を多く得られる。価値創造ないし価値循環のエコシステムの場合、かならずしも「大中心」が必要であるのかどうかは議論の余地がある。ただ、エコシステム全体を見渡すという役割を誰か(単一アクターに限定する必要はない)が担う必要はある。そもそも、複数中心的エコシステムというのは、持続的に成り立つのだろうか。このあたりは考えてみたいところである。

これは、おそらく文化の問題とも関係してくるだろう。



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