見出し画像

社会科学と人文学のさかいとあわい:往復書簡第4信

安西さん

お手紙ありがとうございます。私が前信で提起した点を受け取ってくださって、嬉しいです。本信も、そのあたりと絡んでくると思います。

その前に、安西さんが「経営学に興味なかった」って書いてくださってましたので、まずはそこからお返事していきますね。

先に申しますと、私も前信で書きましたように、経営学に興味があって大学に進んだわけではありません。隙あらば、文学部に転学部しようって思ってたくらいですし、在学していた大学で私の次の入学年次から学部を超えた副専攻制が導入され(その後、ダブルディグリーに進展したと聞きます)たのを聞いたとき、「いや、何で俺の学年からちゃうかってん。嫌がらせか」って思ったのを思い出しました(笑)

その点で、私にとって経営学を学ぶ、あるいは経営学の途に進むというのは、つねに「意味づけをしないといけない」営みであるのです。だから、ビジネスに関する研究が好きで好きで仕方がないという方を見ると、羨望さえ感じます。逆に、この距離感がプラスに作用してるのかなと思うことも少なくないので、この事態をそれほどネガティブには捉えていません。

だからこそ、講義とかでも「経営について教えよう!」っていう気持ちにはなれないんです。むしろ「何で、この企業が魅力的なのか、ちょっと一緒に考えてみようか」っていうスタンスでないと、私が持たないのです(笑)

さて、そんな私なわけですが、もう少し個人史を掘り下げつつ、今の関心に到っているところに触れてみようと思います。

私は1976年生まれです。父親が、日本の近代史に興味を持っていたのか、松本清張『昭和史発掘』(←文字を追いながら、背後に軍靴の音が聞こえるような恐ろしさを感じたことを今でも鮮明に憶えています)が揃いで置いてあったりしたので、怖いもの見たさの感覚で読んだりしていました。

ちなみに、日本史で好きなのは奈良時代から安土桃山時代まででした。近代史が好きだってわけではなかったのです。

で、中学生になったのが、1989年です。ご存じのとおり、昭和が終わり、社会主義(共産主義)体制が崩壊し始めた年です。いろんな社会経済体制、あるいは政治体制ってどんなんなんやろかっていう興味がおのずと出てきていました。『現代用語の基礎知識』とかでも、そのあたりの項目をよく読んだりしてました。ちなみに、そういう興味をなぜ持ったのかなって思い返してみると、国旗と首都を覚えはじめたってのと重なってそうです(笑)

もともと妄想するのは好きですし、レゴとかでよく遊んだりしてましたが、理想的な家を妄想したり、理想的な周辺環境を妄想したりが嵩じて、勝手に島や国やら自然環境まで妄想するところまで「妄想症」が進行してました(笑)

その点で、「あつまれ!どうぶつの森」っていう最近はやりのゲームは、個人的にものすごく興味は持ってます。ゲームそのものが好きではないので、やらないですが(笑)

かといって、中学時代や高校時代に、そっちのほうにのめり込むということもありませんでした。やはり、好きなのは古典文芸だったのです。

で、前回書いたような仕儀で、商学部に入学する羽目になりました。
しかし、経営学にほんとに興味を持つことができず、1回生のときの履修相談で「国語の教職免許を取りたい」(←制度的にできないことはなかったのです)って、履修相談担当の先生に言い出して、その先生も「こいつは、何を言うとるんだ」って困惑している感じだったのを、今くっきりと思い出しました。

ただ、偶然に第三希望で入った1年次の商学演習という入門ゼミで、当時、大学院を修了されて初めて大学教員になられたN先生(本條先生もきっとよくご存じの消費者行動論の先生です。今は法政大学にいらっしゃいます)のゼミに入ることになり、「阪神間モダニズム」っていう現象について教えてもらうことがありました。それをきっかけに阪急電鉄の創業者・小林一三に関心を持ったのは、私が経営学にとどまるフックになりました。

小林一三のさまざまな試みのベースに、彼のもともとの作家志望というのがあるって考えると、彼に私が興味を持つ理由がわかっていただけるのではないかと思います。

その後、とある講義でこんな文献を教えてもらって読んで、おもしろさを感じたりしたのも、経営学にとどまることになったきっかけのひとつかもしれません。

↑何じゃこの値段は(笑)中古ではもっと安い値段です。

さて、その後、結局、経営学史という講義を受けて「あ、これおもしろいかも」と思って、今に至っています。回り道しましたが、ここで再び社会経済体制への関心に結びついていくことになります。

というのも、私が在学していた関西学院大学商学部での経営学のアプローチが「学説を、社会経済的な背景との関係において理解する」というものだったからです。最初は、それにあんまり魅力を感じてたわけでもなかったのですが、「そういえば、子どもの頃は社会経済体制みたいなことに興味持ってたよなぁ」と思い出すことがあり、経済学部のシラバスを見てると「経済体制論」という通年の講義があるのを偶然見つけました。大学院の師匠となる先生(そのときは別のゼミに所属してました)にその話をすると、「あ、この先生、(師匠の)前任校で仲良かった先生やで。聴かせてもらったら?」っていうことだったので、その「経済体制論」の講義を履修登録せずに聴きに行くことにしました。

その担当の先生は、スペインの生産協同組合であるモンドラゴン協同組合の研究をされてる方で、「へー、株式会社じゃないのに、生産もやって存続できてるところがあるんや」っていうおもしろさがありました。このできごとも、最近のソーシャル・イノベーションへの関心の伏線といえるかもしれません。意図してはいませんが、伏線回収だとすると、自分でもちょっと面白いです。

その後、しばらくは学説それ自体に沈潜して考察するというアプローチで研究をしていました。おそらく、文芸学という「作品それ自体を考察する」という姿勢が影響していたのではないかとも思います。

一方で、「その学説は、その学説が生まれた社会経済的な背景の影響を受けている」というアプローチをどう咀嚼するのかという点も考えてはいました。「同じ時代に生まれた学説やのに、何でこんなに内容的に違う学説が出てきてん」って内心でツッコミをいれながら(笑)

ただ、社会経済体制そのものへの興味はあったので、特にドイツにおける社会的市場経済というのは、何を志向したしくみなのかってあたりについて、いろいろ文献を読んではいました。そこから、〈社会経済体制と企業のありよう〉という思考枠組が私のなかにできあがっていったのは間違いないです。

さて、ここまで経営学に関する私の個人史を、前信よりも少し深掘りしてお話してきました。

しかしながら、こういった流れと文化への関心は、私のなかでまったく別個のものでした。むしろ、結びつけたくなかったのです。社会科学と人文学は、もちろん究極的に人間の営みを対象とするという点で結びつくという確信はありましたが、そこを安易に結びつけることへの心理的嫌悪感というか、拒否反応みたいなものがありました。

文化の問題は文化の問題として考えたい、そういうある種の純粋志向みたいなものがあったのは否めません。だから、文学研究におけるマルクス主義批評やフェミニズム批評といったスタイルに対しては、すごく距離を置いていました。マルクス主義がどうとか、フェミニズムがどうとかいったことではありません。外在的基準による裁断のような批評が嫌いだったのです(今でも好きじゃないですw)。もちろん、ここには文芸学への憧れがあります。文芸作品について考えるなら、その着想や視座、あるいは詩的言語や文体のような言語の観点から解き明かしていくのが正道だろうという思いを強く持っています。

だから、社会科学的な問題領域と人文学的な問題領域を安易につなげたくなかったのです。

それが、私のなかでようやく整理がついたのは、じつは『地中海世界』を読んだからなのです。「え、そんな最近のこと?」って驚かれるかもしれませんが、私って肚落ちするまで、ものすごーく時間をかけてしまうので、他者の論理として理解はしていても、納得するまでには至っていないということがものすごくよくあります(笑)

つまり、社会経済体制と文化を結びつけて考えても大丈夫かなと思い始めるまでに、小林一三との出会いから考えても、20年以上の歳月を要しているのです。

『地中海世界』を読んだことで、自然や生活、経済、政治、文芸(←ここでは文化芸術的アーティファクトの意味)の重層性にアプローチできるっていう心づもりがようやくできあがってきました。

そうなると、社会経済体制への関心と、企業のありよう、そしてその根底にあるものとしての〈文化〉とを結びつけることは、私のなかで得心のいくアプローチとなりました。当然、ソーシャル・イノベーションは、これらの連関において捉えることができるはずです。

となると、SDGsというのにしても、その傾向が悪いとは全く思いませんが、Goalsが生まれた背景に思いを致すことなしに、時流というだけでSDGsと声高に叫んでも何の意味もないって思ってしまいます。「ソーシャル・イノベーションってSDGsでしょ」みたいに、安易に裁断されてしまうのはもっとも嫌ですね(笑)

こういうわけで、私は、人間が生きるということ、そこに立ち現れる〈生活〉に対する思索考察のない経営実践には、まったく興味が持てない経営学者なのです(笑)幸い、私が接する機会を頂戴している実践の方々は、こういう点を深く考えてらっしゃる方ばかりなので、私も心地よく、楽しく話をさせてもらえているわけです。

このあたり、追々〈ソーシャル・イノベーション〉という視座からも考えてみたいところです。

ではまた。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?