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企業者的姿勢のゆりかごとしての大都市。ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(19)

ブローデル『物質文明・経済・資本主義』の読書会第17回のメモ。第1巻の第2分冊。第8章「都市」も最終回。今回は「大都市」の節を。

摘 読。

長い間、大都市は中東と極東にしか存在しなかった。西ヨーロッパも16世紀以降になって、ようやく大都市がいくつか生まれた。ことに、ロンドンとパリである。これは、ヨーロッパにおいて近代国家のはしりが生まれたのと、歩調を合わせている。中東や極東において大都市が早くから生まれたのも、この国家という存在が大きい。インドなどを見ればわかるように、都市の盛衰は王侯の気まぐれと一緒に訪れた。

むしろ、ヨーロッパの都市と似たような成長経緯をたどったのは、日本の諸都市であった。江戸時代における都市人口は、一位が江戸、二位が京都、そして三位が大坂であった。このうち、京都は天皇が住まいする旧首都であったが、大坂は商人の集合地点であり、その生活様式は貴族生活をいくらか単純化したもので、民衆的な町人文化が花開いた(ブローデルが想定しているのは、井原西鶴のようだ)。ただ、やはり政治的首都であった江戸が、最も栄えるに至る。幕藩体制は、フランス同様に中央集権的であった。

さて、都市というのは、莫大な支出をなす空間でもあった。その経済に対する均衡は、外部からしか得られなかった。つまり、これらの都市の贅沢の代金は他人が払わなくてはならなかったのだ。こういった都市が、近代国家をつくりあげたのである。実際に、イギリスが栄えるに至ったのも、連合王国化などが理由なのではなく、ロンドンをめざして、またロンドンから発して、貨物がしきりに往来を重ねたことによる。ロンドンが万事のリズムを支配し、万事を動転させては、鎮静させる、要求の多大な心臓だったのである。しかも、こういった都市は経済に限らず、文化的、知的、そして革命的でさえあった。しかし、その役割はひじょうに高くついた。だから、その代償を自ら償うか、あるいは他人に償わせるしかなかったのである。

アムステルダムなどは、まだ贅沢よりもゆとりを求めて、都市の成長を懸命に誘導した。そんなアムステルダムでさえ、南西方向のヨルダーン街区では、神経の荒っぽい開発業者に委ねられたため、プロレタリアートやユダヤ人移民などが混じりあって暮らしていた。

こういった人口密集地を生み出したのは、やはり商業であった。しかし、17世紀末の段階で商取引の利益で生計が立っていたのは、せいぜい10万人程度であった。むしろ、都市に富を引き寄せたのは王室やそれに仕える高級・中級・下級役人たちであった。彼らの俸給はすこぶる高かった。この収入が、都市にさまざまな仮需要をつくりだしていた。それは、結果として周辺地域から富を吸い上げるかたちになったのである。こういった点をカンティヨンもケネーもよくみていた。パリの場合も、さまざまな奢侈品が集まってきたのだが、事情は似たようなものであった。

ナポリの場合、王宮から市場にいたるまでの落差がきわめて大きいものだったし、ヴィーコのような大学教授でもほうぼうで個人教授をしなければ暮らしが立たないくらいで、そういった大衆のうえに廷臣や地所持ちの大貴族、高位聖職者、汚職役人、裁判官、弁護士、訴訟人などの超上流社会が存在していた。では、こういった制度は、なぜ成り立ちえたのか。それは、ナポリ王国の各地から、あらゆる余剰人口を労働力として引き受けていたからである。

サンクトペテルブルクの場合、もともと洪水に弱い都市であった。運河や堤防を拵えなければならなかったので、その都市化もきわめて緩慢だった。同時に、それはつねに建築・建設を促すという、活気に満ちた建設現場でもあった。そして、ネヴァ川がもたらす恵みもまた、重要であった。そんなサンクトペテルブルクにおいては、意図的・意識的な線引きによって、金持ちと貧乏人とが分離され、工業や邪魔になる生業は周辺地区へと追いやられた。このように、都市の整備がなされていったのだが、しかし「新住民」がどんどん流れ込んできたのも事実である。それゆえに、サンクトペテルブルクは他国からの移住者も含めて、混ぜこぜの都市であった。それが、新規さや変化、肩書、安楽、贅沢、支出への好尚をもたらしもした。これによって、サンクトペテルブルクは慢性の赤字に直面した。しかし、それは帝室の財産や領主たちの莫大な収入によって補填されたのである。北京の場合も、皇帝の財産が都市を支える基盤となっていた。

最後にあらためて採りあげられるのが、ロンドンである。ロンドンはエリザベス女王の治世のころから「あらゆる都市の精華」と称され、18世紀後半にサミュエル・ジョンソンは「ロンドンに飽きるということは、人生に飽きるということである。それというのもロンドンには、人生がさしだしうるかぎりのすべてが包蔵されているからである」とまで称賛している。王国政府もまた、この繁栄を共有しつつも、同時に危惧のタネでもあった。首都は怪物であり、その不健全な成長は何としても食い止めねばならなかった。為政者や持てるものが懸念していたのは、貧乏人の流入であった。実際、各々が不法建築を運試しのようにおこない、網の目のような、迷路のような、路地や細い通路が生まれ、家屋が建ち始めたのである。そして、ロンドンが依存していた川、そこには多くの船舶が行き交い、取引していた。その周辺に、極貧に喘ぐ住民たちが住んでいた。当然のように、そこでは窃盗などが頻発した。

ロンドンの旧市街はCityと呼ばれるテムズ川に沿った一帯であった。ただ、その境界は早くに消滅し、わずかに残った防壁から広がる郭外町までがロンドン市当局の権威の及ぶ境界線であった。もともとはこういった囲壁のなかがロンドンの活動の拠点であったが、時代を追うにつれて、それは四方八方に広がっていった。いわゆる貧民街もあれば、方角を変えれば田園風景と富豪の邸宅が拡がる地域もあった。そして、それらの境遇の差が、都市における対立をももたらした。

ロンドンにおいて典型的にみられるわけだが、都市においては不潔さという境遇が、貧富を問わず共有されていた。中世都市は、近世都市ほどには大きくなかったので水源の確保なども、それほどの困難はなかった。それが、大都市それ自身が人々を引き寄せたことによって、このような状態を惹き起こしていたわけである。

こういった巨大都市は、さまざまな進化をめぐる驚異的な試薬であるという長所をもっている。物質生活を進展させ、近代文明を築き上げてきたという点で、巨大都市がもたらしたものはきわめて大きい。一方で、旧制度経済における成長との不整合が、さまざまな欠点を生み出しもした。ルソーは、これを都市が持つ寄生性がもたらす問題だとしたが、それはおのずから形成されたものではなく、社会・経済・政治に許されて、あるいは強制されて、今の姿になったのである。都市に贅沢が根強くはびこるのは、まさに都市の秩序がそのようにできているからであり、資本や余剰がよりよい使い道がないままに都市に蓄積されていくからなのである。そして、大都市を中心とする都市系が形成され、また都市系によって都市も規定される関係が生まれていった。

ただ、こういった新制度と旧制度が綯い交ぜになった近世都市それ自体は、産業革命によって生じた近代都市の直接的な中心になったわけではなかった。ロンドンにしても、パリにしても。近代を象徴する大規模な工場などが所在するのは、大都市周辺に生まれた都市たちであった。

私 見。

それぞれの都市についての議論が、縦横無尽に展開されているので、いつもながら要約しにくい(笑)しかし、ひとまず、都市への人の集中とそれによってもたらされる猥雑さ、そしてそこから生まれてくる文化的・政治的・経済的な胎動が、都市のダイナミクスをもたらしていたというのが、ブローデルの視座であることは窺い知られよう。

そして、このロンドンを中心とした叙述をみていくと、ブローデルがなぜカンティヨンやゾンバルトなど、企業者をめぐる議論を重視した経済学者・経済思想家を頻繁に採りあげるのかという点も浮き彫りになってくる。ブローデルにとって、15世紀から18世紀という時代は、リスクをとりながら、ときに狡猾に、ときに文化を形成する担い手ともなっていった商人が主役の一人だったと映っているわけだ。となると、19世紀以降の近代社会は工業が中心になっていった時代だという見立てが、背後にあろう。もちろん、それもきれいに入れ替わったわけではなく、企業者的な商人と工業生産が結びついたところに近代が生まれたとみるべきだろう。

その意味において、都市は企業者的姿勢(Entrepreneurship)のゆりかごであり、そのなかにはきわめて雑多な要因が放り込まれていたと捉えることができる。そのエネルギーを活写しようとするのが、この大著におけるブローデルのアプローチだと言っても、そう外してはいないはず。



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