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平成最後の東京大学の告辞と祝辞(19)

平成最後の東京大学の卒業式の総長告辞、その後半で見田宗介先生の書籍から引用しつつ、語られていることにいたく感銘を受けた。

そして、その余韻が心に残ったまま、昨日と今日、facebookのタイムラインを専有したのが、入学式での上野千鶴子先生の祝辞である。こちらも、心を掴んで離さないインパクトのある祝辞だった。

そして、見田先生及び上野先生は共に社会学者である。2つを重ね合わせてみると、何か発見があるのではないかと思い、文脈を意識氏すつ、文章の前後関係は多少無視して、交互に並べた。

卒業式(東京大学総長 五神真)、入学式(東京大学名誉教授 上野千鶴子)の順である。

当時、日本はまさに高度経済成長のまっただ中で、彼らは「金の卵」と呼ばれ、多くの企業から引く手あまたで歓迎されました。彼ら自身も、地方での貧困や閉塞感から抜け出せることに希望を抱き、大都市に足を踏み入れたのです。しかし、その若者たちとそれを受け入れる都市の間には、大きなすれ違いが潜んでいました。

なぜ男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。なぜなら、男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。

N・Nはやがて、自らに向けられた都会の人々の視線、まなざしの冷やかさと、その人々の目に映ったまま変えることができない自らの出身や経歴に気づき、強い疎外感と攻撃性とを抱くことになります。

そうやって東大に頑張って進学した男女学生を待っているのは、どんな環境でしょうか。他大学との合コン(合同コンパ)で東大の男子学生はもてます。東大の女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、ひかれるから、だそうです。

格差社会の構造は、私たちが生きる今の社会にも実は横たわっています。優位な多数派の側に立つ人々が、異質な少数の他者に対して半ば無自覚に排他的な目を向けてしまうという構図は、現代においても珍しいものではありません。

東大には今でも東大女子が実質的に入れず、他大学の女子のみに参加を認める男子サークルがあると聞きました。わたしが学生だった半世紀前にも同じようなサークルがありました。それが半世紀後の今日も続いているとは驚きです。

翻って、自分と異なる他者に対しては「変わり者」や「異端」のレッテルを貼りがちです。一方で、多数派に属しているつもりだった自分が、何かのはずみで突然「異端」の側に立たされてしまうという事態が、いとも簡単に起こりえるのです。

これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等の社会でした。偏差値競争に男女別はありません。ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。

私たち自身誰もが、異質性によって排除される他者の立場になり得るということであり、逆に異質に見える他者の誰もが、じつは互いに共通する側面をもっていて、同じ社会の一員になり得るのだということです。

言っておきますが、東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です。わたしのような者を採用し、この場に立たせたことがその証です。東大には、国立大学初の在日韓国人教授、姜尚中さんもいましたし、国立大学初の高卒の教授、安藤忠雄さんもいました。また盲ろうあ三重の障害者である教授、福島智さんもいらっしゃいます。

さらに、現代において、異質な他者に向けられる人々のまなざしには、N・Nの時代よりもはるかに強い衝撃と影響力が加わっています。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。

というのも、N・Nが強く意識し恐れた人々の評価は、基本的には彼が直接に出会った職場やその周辺に限られていました。しかし現代においては、直接に会うことのない幾多の見知らぬ人々の目が、あっという間に特定のターゲットに向けられます。

そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。

見田先生はN・Nの手記を目にして「これはありえたかもしれない自分だ」と強く共鳴したといいます。犯罪者としての彼との見かけの違いを乗り越えて、子ども時代の貧しさ、家族への反発と上京、世間の偏見への怒りなどについて、手記を真摯に読み解いていきます。

世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

そこで、その人が抱えこんでいる人間としてのさまざまな側面、すなわち、「内なる多様性」にたどり着くのです。それに目を向けることこそが、自己と他者との深い相互理解を可能にし、多様性を尊重するということなのです。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

語源を探っていくと、con-は「ともに」という意味であり、summateは「足し合わせる」という意味ですから、ただ一人だけで楽しむということではありません。

そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

まもなく「ポスト平成」の時代が幕を開けます。そこでは、誰もが同じ未来を見据え、同じ目的に向かって邁進することに迷いのなかった高度成長期とは違う生き方が求められるでしょう。

あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。

自分とは異なる視点を持つ他者と深いコミュニケーションを交わし、協働して新しい時代の課題に挑んでください。それこそが、みなさんが広い世界の舞台で「知のプロフェッショナル」として貢献していくことに他ならないと、私は信じています。

あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。

また、皆さんの知恵、これから社会で体得する知見は、東京大学をよりよくするための大切な資源です。よりよい教育と研究の環境を備えるために、卒業生だからこそできること、卒業生にしかできないことを、是非していただきたいのです。

大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。

最後に、本日ここを卒業し巣立っていくみなさんが健康であり続けるとともに、これからも東京大学での体験を活かして不断に学び続け、希望に満ちた明るい未来を切り拓くことを祈念します。

知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ。

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祝辞と告辞にしては、お祝いムードが少ない。平成最後の、という歴史的な節目を意識してか、目の前にいる生徒を越えて、社会全体へメッセージを投じている印象が強い。

ジェンダー問題とN.Nへのまなざしを題材に、昭和を振り返り、現在でも変わっていない面がある。反省せよ、という論調は2人に共通している。

違いとしては、五神先生は、『現代社会はどこに向かうか』からpositive,diverse,consummatory
を紹介した。その中で、特にconsummatory に注目し、次の時代において大切にしてほしい感性として、卒業生に伝えている。

上野先生においては、大学で学んでほしいこと、学ぶべきことを簡潔にお話しされた。

入学式と卒業式とで、シーンは全く異なるが、共通した内容は、平成最後であれ、結局、昭和を乗り越えられていないという痛烈な批判なのか、それとも、叱咤激励と期待なのか。

学びや教育関係の本の購入にあて、よりよい発信をするためのインプットに活用します。