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「表現」の前に武者震う晩秋


今日は少しばかり、不親切な文章です。

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東京芸術祭2019が開催中です。

いまのところ「暴力の歴史」「可能性は風景の前で姿を消す」「ハウリング・ガール」の3作品を見ました。どれも刺激的で、面白かったです。

昨日は12月21,22日に山梨県で上演する「ヤマガヒ」の顔合わせもありました。不条理劇的な要素を含んだ演劇作品です。


表現の方法、のことをここ数日とても考えています。

「より広く」「より多く」「より遠く」に届くための表現と、「より強く」「より深く」届くための表現は、そもそもそのカタチが違うのではないかということです。

このところ僕は、商業演劇の場や、あるいは商業演劇的文脈で表現を考える時間が多かったなと思っています。それ自体は悪いことではないし、むしろ僕の仕事にとってはいいことです。

けれど反面、「表現の可能性」についての選択肢をかなり狭く限定してしまっていたのかもな、とも思います。



世界中には、本当にさまざまな表現の形態があります。

そして、日本にも、とてつもなく多種多様な表現の形態があります。

商業演劇的文脈というのは、その「数多の選択肢」のうちの、ごくごく一部分でしかありません。この、当たり前なことを、少しだけ忘れていた気がします。

うーん、忘れていたんじゃないな。正確には。ないがしろにしていた気がします。



海外からやってきた平均的に質の高い舞台を見て気づいたのは、

・僕は構造に興味があるのだな

ということ。もうひとつは

・匿名の身体、というのがあるのだな

ということ。

「物語」を注視する物事の受け取り方も尊いけれど、その物語が語られている「構造そのもの」に目を向ける機会が、日本の大手メディアに触れてばかりの日常ではあまり得られないんだなとわかりました。

いや。前からわかっていたことを、あらためて認識しました。

日本の、「より多くの人が目にする機会があるタイプ」の劇評は主に、出演者のことや、舞台表現の形態を形容するだけで精一杯です。与えられる文字数が少ないから。

学校での文章の読み取りの課題にしたって、「登場人物の気持ちを答えなさい」はあるけれど、「この文章の構造について論じなさい」という問題には出会ったことがない気がします。額縁型構造、ぐらいかな。


けれど、自分ではない人が作り出した表現を読み解くには、「そこに何が語られているか」を読み解く力も大切だけれど、「それがどのように語られているか」を理解する力も、ものすごく大切なのです。

でないと、先のあいちトリエンナーレみたいな出来事につながってしまう。

僕はどうやら、「何が語られているか」より「どのように語られているか」の方に興味を惹かれるようです。


「匿名の身体」についてはまたの機会に書いてみます。




このタイミングで「ヤマガヒ」に取り組める幸運を喜んでいます。

いまの自分の身体を用いて何ができるのかを、ゴリゴリと模索していこうと思います。






読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。