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わらひをみな

展開の無い音楽が展開したかのように思えた。

小屋の空気は湿度が高く、まるでぬるぬるとした微温湯ぬるまゆに浸かっておるかの如くに不快な感覚がわたしを苛む。苛まれた限りは刃毀れした刃物にて抗うことしかわたしには到底出来ぬのだが、わたしの肌がそれを拒む。汗を掻いていた。総身の毛穴という毛穴から塩っぽい液体が溢れ出し、着物は肌蹴はだけて大いに乱れ、薄い乳房は疎か下半身しもはんしんの恥毛までもが露わとなっているが故に身動きが取れぬ。

動けば小さな傷を負う。突端の些細な敏感さが命取りになることもあるわけで、果たしてわたしは喉をぐびりと鳴らした。渇いている。一滴の水に潤いを犯されてしまうほどに渇いている。それでも柱に痩せた背を預け、この場を凌ぐすべも無く、わたしはこの蒸し風呂のような部屋から一歩も脱することが叶わぬ難儀に白い歯を、否、その実、かすかに黄色く汚れたそれを誇示すべく強かにわらってみせた。

丸いしゃぼんの輪郭が滲むように溶け、震えて、割れて、わたしは自身の命運が尽きぬよう祈るものの、畢竟ひっきょうそれは額から流るる白濁した灰汁の如き何物かを拭うことすら出来ぬばかりか、寝返ることさえをも赦されない深き重き罪の意識の中で、真っ青な手首には躊躇ためらいが幾重にも疾走し、さながら硝子があちこちに刺さったよう。

しかるにわたしは五濁悪世の申し子としてここに、柱に、もたれている限りはこれ以上の獄に堕ちるはずもなく、只、静かに両の瞼を力無く閉じて祈った。茫漠たる砂塵の果てに映るは刺々しい床。畳表を剥がした痛み。内腿に激痛と出血の痕が刻み込まれて、あてども無くわたしは坐したままに彷徨する。つまりは意識のみがそれを赦されていたので、壁の向こうから「助けておくれ」と声音が聴こえる。わたしはその声音に導かれるが如くに佇立しているおのこを肉慾のままに迎え入れた。

下衆なをみななりと牛頭馬頭が囁く。

わたしは息を吐いた。粘着質な白いものも吐いた。どうしても嚥下えんげすることが出来ないので、怒張したおのこは激怒した。頬を叩かれる。当然のことながら口の中を切った。唇の端から赤黒い血液が流れ出る。それはあたかも生命の存在を証明するかのように、わたしの一部として弾け飛んだ。されど切なさは募るばかりで、結句やり切れぬ。勢い肌蹴た衣服をわたしが破り捨てたものだから、おのこはまたもや直様に果て、忽ちにあしたの骸と化したのはこの小屋が人々の機微を見捨てないから。生きている。小屋は明らかに呼吸をしている。わたしは再び嗤った。

浮游ふゆうする凹凸おうとつある質感の響きが昂ぶりを募らせるのは、多分に賛歌のそれと契ること、交わることを赦された所為であり、わたしはこの音を好ましく思っては耳を澄ませて髄まで吸収してやらんと試みた。ぬらりとした生温い湿り気がわたしをいざなう。ひとつの音はふたつの音を、更にふたつの音はみっつの音を生じさせ、グルウヴ。重なり合うことでその快楽は深く繊細に変化を遂げ、大きな塊へと昇華する。時折、X軸とY軸のズレが発生するも、それがまた心地好い。わたしはおのが指を以て禁忌タブーを犯す。突端を優しく慰める。

繰り返し繰り返し、調べは繰り返され、何事も無かったかのように時に無為、時に虚無を奏でた。わたしの心はいつしか汗を忘れた。我も忘れた。微温湯に浸かっているが如き状況には何ら変わりはなかったものの、頬を柱に触れさせると、何故だかわずかにひんやりとした。牛頭馬頭の囁きは止まらない。下衆なをみななり。下衆なをみななり。まるでわたしが罪深き所業を為しているかの如く嘲笑を続けるが、わたしはもはや聞く耳を持たない。頂点で、頂きで脳髄を沸騰させるべく逝く。何度も何度も逝く。死は生の裏返し、表裏一体の悦び。

渇きはいずこへ。潤っていた。しとどに濡れていた。突として蛇の口を捻ったみたいに潤いが激しく放出された。強かに音を立てて。大きく孤を描くように。羞恥が無いと云えば嘘になる。それでも止めようが無かった。着物が汚れてしまったが致し方ない。もとより襤褸ぼろを纏っているようなものであるし、後悔は微塵もしていないから構わない。床には水溜まり。固く汗を吸った長い黒髪が束となって口元に纏わりついて来た。髪を噛む。ぎりぎりと噛む。もはや牛頭も馬頭もいない。わたしが独りここにいるだけ。

笑った。
声を出して笑った。

展開の無い音楽が展開したかのように思えた。

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