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「気づき」について

「気づく」というのは広く発見やひらめきといったニュアンスで語られますが、マーケティングリサーチのような仕事をしていますと「それまで所与のものや当たり前のものとして認識にエネルギーを割かなかった事象に対し、その存在の特異性を認識するようになる」という、やや狭い意味合いになってくることが多いと感じています。早い話、気づかないことの大半は実は既に見えていることだということです。

そんな私の気づきの原体験は、商品部門で実際に売り場に立っていた頃に遡ります。自分はスタッフ部門から現場部門に異動になったために現場感のなさに焦りを感じていたので、暇を見つけてはバックヤードから売り場に出るようにしていました。

だいたい3ヶ月ぐらい経った頃でしょうか、昨日まで慣れ親しんでいた商品配置を、急に当たり前と思えなくなる感覚が襲ってきました。例えば当時、お菓子は専用コーナーをつくることは行われず、チョコレートやおせんべいといった種類ごとに店内バラバラに配置されていました。なぜそうなっているのか自分で説明できないことを急に自覚したような感覚です。お菓子コーナーをつくって固めていた方が、お客様は絶対に楽チンに商品選択できるはず。そう「されていない」ことに違和感を感じたのですよね。

これは本当に唐突でして、一体なぜあの瞬間だったのかは皆目検討もつきません。ただ、店内の顧客の動きをひたすら脳にインプットしていたことが機能したことは確かだと思います。当時は解釈もできない情報でしたが、とにかくそうすることは絶対に役に立つはずとは思っていました。

また、売り手側がお店を「意思」を持ってつくり上げていることを知らず知らず体感していたことも要因と思います。基本的に顧客側の立場からは、商品配置などは「当たり前」の情報です。プロでもない限り、スーパーや百貨店の陳列から意思を読み取ろうとする方はいませんよね。顧客はそれを所与のものとして消費するだけです。私は売り手側に回りお店の運営に携わることで、初めて「売り手の意思」が存在することを理解できました。

こうして考えてみますと、どうも「自分の中に、売り手人格とは別の顧客人格を育てる」ことの萌芽があったようです。先ほどもお伝えしました通り、顧客はお店の商品配置は意識しません。だからほとんどのお客様は、便利とも不便とも思わずにお買い物されていたでしょう。
自分の中にある顧客人格も当初はそうだったのだと思いますが、その顧客人格が売り手人格と対話を続けていくうちに「今の商品配置は不便なのでは」という認識と言語化に至ったのだと思います。

私はこのような「顧客人格と売り手人格の対話」が顧客理解を深めるものと思っており、顧客インサイトはこうして見出すと思っています。これは今でこそ言語化できていますが、当時は当然そんなことは考えず、天啓の如く降ってきた謎の気づきとしていました。

そして、「当たり前を疑うというのはこういうことか!」と、初めて身体感覚として理解したのが、このときだったと思います(これはおそらく開眼ということです)。

よく「当たり前を疑え」と言われますが、売り手人格だけでアタマで頑張って考えて当たり前を疑ってみても、ロクな気づきには繋がらないのですよね。

「何か隠された要素があるはずだ」と考えるより「見えている中に自分が気づかない要素があるはずだ」と考える。
売り手として気づいていなくても、顧客として見れば気づくところはある。顧客として気づいていなくても、売り手として気づくところはある。そういう複数の視点を自然に切り替えながら、あるいは同時に駆使して自分の中で対話する。

マーケティングにおける気づきとは、そのようになされるものと思います。

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