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楽しい観察調査 アンケートやインタビューにない学びについて -ナイチンゲール先生に学ぶ-

「楽しい観察調査」過去のシリーズはこちらからどうぞ。

さて、ひとまずの最終回となる今回は、フロレンス・ナイチンゲールの著書「看護覚え書」を紹介いたします。

ナイチンゲールという人物を知らない人はいないと思います。
偉大な看護師。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのはナイチンゲールに由来するそうですね。

私がナイチンゲールを知ったのは幼稚園生か小学生の時だったと思います。
童話などで得た、そのときのイメージはこんな感じです。

後者はだいぶ現代にあわせてビジュアライズされていますね。

要するに「健気」で「献身的」に、我が身も顧みず戦地に出向いてまで患者の看護にあたる…という印象です。慈愛の象徴たる人物。

ところが…わざわざ私のような者のnoteを読んでくださる方には説明不要かと思いますが…、大人になって知ったナイチンゲールの実像には、偉大な統計家であり一国の政治すら動かす実務家という側面がありました。

「白衣の天使」のイメージからは、人間の俗なところ、汚いところとはある種無縁だったようにも思えますが、とんでもない。そういうところとストレートに向き合い、戦い続けたのがナイチンゲールの人生でもあったようです。

その戦う基盤となったのが、統計であり優れた観察です。今風に言えば「エビデンスベースド」でしょうか。

この「看護覚え書」という書籍には、その部分のエッセンスが余すところなく記されています。加えて組織論やキャリア論まで守備範囲内におさめており、個人的には全ビジネスパーソン必読の書と言いたいぐらいです。少なくとも、マーケティングリサーチを志す人には、ぜひ読んでいただきたい。

というわけで、以降は書籍から私が好きな部分を抜粋していきます。観察や統計を直接取り上げたところというより、ナイチンゲール先生の怒りが爆発しているところを中心に集めてみました。

ちゃんと患者と向き合わず、観察(観て察すること)をせず、ただ独りよがりで無思慮な振る舞いへの怒り。
いやはや、幼稚園生や小学生のときのイメージがものすごい勢いで上書きされていきます。あの超人的な活動のベースには、こういうマグマのようなものがあったのですね。

恐ろしくバリエーション豊かな悪口雑言に圧倒されますが、さしあたりはそれを痛快に思ってもらえるだけでも良いです。
興味を持っていただけたらぜひ手に取ってください。そして、統計や観察のなんたるかをぜひ学びとっていただければと思います。

それでは、抜粋パートです。

P.75
大事小事を問わず、何かに対して「責任を持っている」ということの意味を理解しているひとは-つまり責任をどのように遂行するかを知っているひとという意味なのであるが-男性でも、女性でさえも、なんと少ないことであろう。

いきなり火の玉ストレートです。怒りが爆発しています。

P.78
責任者たちは往々にして、「自分がいなくなると皆が困る」ことに、つまり自分以外には仕事の予定や手順や帳簿や会計などがわかるひとも扱えるひともいないことに誇りを覚えたりするらしい。私に言わせれば、仕事の手順や備品や戸棚や帳簿や会計なども、誰もが理解し扱いこなせるように-すなわち、自分が病気で休んだときなどにも、すべてを他人に譲り渡して、それですべてが平常どおりに行われ、自分がいなくて困るようなことが絶対にないように-方式を整えまた整理しておくことにこそ、誇りを覚えるべきである。

お前のくだらんプライドなどどうでもいい、患者のことを第一に考えろという魂の咆哮が聞こえるようです。

P.108
いつも不思議でならないのであるが、自ら看護師と称する教養豊かな人びとでさえ、こんなことをしている。彼女たちは、自分の生活や仕事については、一日に何度も、あれこれ変化をもたせておりながら、寝たきりの病人たちを看護(!)しているというのに、病人の身のまわりに変化をつけて気分転換をはかったりなどまるでせず、ただじっと重苦しい壁面を見つめさせておくのである。

少しは自分に置き換えて考えろという雷が落ちております。

P.118
思うに、彼女たちは、判断力を働かせることが自分たちの義務とは考えず、それをもっぱら患者に委ねているのである。これは確信を持って言えることであるが、その患者にとって何が看護となるかを看護師が知らないとなると、患者としては、それを看護師に教えるよりは、看護師の怠慢を我慢しているほうがはるかにましなのである。

顧客に「答えを教えてください」というマーケターやリサーチャーは100万回暗唱すべき文章です。

P.170
素人であれ医師であれ、のこのこと病室まで出向いてきて、その実行の可能性はおろか、患者にとっての安全性についてさえ知らないことを、患者に勧めて患者を悩ます友人や知人たち。彼らのずうずうしさは驚嘆に値する。

P.171
こうしたおよそ陳腐な忠告の言葉は、これら病に苦しむ人びとの人生の終焉近くによく見られる、あの自己の務めに対する健気でひたむきな専心に対して、汚点をつけるようなものである。それは、陽光に燦く南面の果樹園の塀に残された蝸牛の粘液の跡を思い起こさせる。

ナイチンゲール先生の教養が爆裂しています。「患者のことを考えない独りよがりはカタツムリの粘液のごとし」というのはなんという豊かな語彙による罵倒でしょうか。脳髄にびんびん響きます。

P.178
看護師に課す授業のなかで、最も重要でまた実際の役に立つものは、何を観察するか、どのように観察するか、どのような症状が病状の改善を示し、どのような症状が悪化を示すか、どれが重要でどれが重要でないのか、どれが看護上の不注意の証拠であるか、それはどんな不注意による症状であるか、を教えることである。

観察の重要性を明確に書いておられます。

P.179
「この患者さんに便通は何回ありましたか?」看護師さん」「一回です、先生」。こういうばあいたいていは、実際には便器を七回も八回も使われていたが、ただそれを看護師が空にしたのが一回だけであった、という意味なのである。

何が大切かを考えて言葉を定義しろ、患者から見た回数と看護師の作業から見た回数は違うだろふざけんなというお怒り。ここもマーケターやリサーチャーが100万回暗唱すべき箇所です。

P.180
真実を述べるということは、一般に人びとが想像しているよりも遥かに難しいことである。それは《単純な》観察不足によるばあいがあり、また想像力のからみあった《複雑な》観察不足によるばあいがある。

P.180-181
後者も観察のお粗末さからいえば五十歩百歩なのであるが、こちらのほうは、たちまちにして想像が入り込んでくる。そしてすっかり自分がその眼で見、その耳で聞いたような気になって、想像だけでこと細かに描写したり、あるいは実際には自分が他人に話したものにすぎないのに、それがあたかも自分に向かって話されたものであるかのように、会話の一部始終を再現してみせたりもする。こういうのがいちばん多い。このような人びとは、自分が《観察していなかった》ということさえも観察していないし、また自分が忘れてしまっているということも忘れているのである。

なんという鋭すぎる舌鋒でしょうか。なんでこんな馬鹿がまかり通るのだとの怒りが行間から存分に漂ってきます。
観察者として注意すべきことが述べられていると同時に、インタビュー調査での注意点も見事に射抜いておられますね。

P.184
こうした誘導的な質問のせいで、患者が死に至ったり、付き添っている人たちが、その症例のいちばん重要な特徴にまったく気づきもしないでいた、といった実例を私がどんなに多く知っているかは、あえて言わない。

P.185
さらに、「食欲はいかがですか?」という質問が「消化の具合はいかがですか?」という意味で使われることも多い。もちろん、この二つが互いに依存しあっていることも多い。しかしこの二つは、本来まったく別のものなのである。

聞くべきことではなく、聞きたいことを聞くことの害悪に対するまた凄まじい怒り。正確な言葉づかいが命すら左右する現場の重みも伝わってきます。この本を読んで「俺の仕事は看護じゃねえし」などと思うなら、マーケターやリサーチャーは向いてないんじゃないかとすら思います。

P.200-201
にもかかわらず、観察の能力は、ほとんど進歩していないように思われる。病理学上の知識の増大はめざましい。しかし、病理学は病気によって人体組織に最終的に起こった変化を教えてはくれるが、そうした病気の経過中に見られる変化の徴候を観察する技術については、ほとんど何も教えてくれない。それどころか、むしろ医学の基本的な要素のひとつである観察が退歩してきていることを、心配すべきではないだろうか。

テクニックやツールに頼り、対象に向き合わず学んだことを内面化もしないマーケターやリサーチャーもいますからね。全員100万回暗唱以下略。

P.61
思慮深く情をこめて患者を管理することこそが、感染に対する最良の防衛手段なのである。

この言葉が精神論でないことは、ここまでお読みいただければわかってくださると思います。


さて、これでシリーズ「楽しい観察調査」は終了です。
何か新しいネタが思い浮かびましたら、続きを書いていこうと思います。

皆さん、ぜひ観察調査にトライしてみてくださいね!


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