身体の記憶
先日、新月の夕べに祝へ初めて訪れた。
ここで過ごした、いっときが、その後なんども記憶を反芻して
忘れがたい日になったのは確かだった。
感じたことを記録したいと思ったので、稚拙ながら文章を綴ることにする。
数個の蝋燭で灯されたこの場は、古い町家でこの日は風も少ない酷暑の6月だった。
町家へ入った時に感じたお香の匂いが、数年前に訪れたインドの記憶を蘇らせる。
拭っても引かない汗、暑い身体、クーラーに慣れた身体がぐったりとなったのは最初だけで、なれると不思議と妙な心地よさを感じるようになった。記憶が支えた、懐かしい感覚だと思った。
お腹の小さい人も、もごもご元気に動いていたので安心した。
詩の朗読と呼吸・ヨーガの時間が始まった。
朗読は、言葉がいろんな温度を持って心に流れていく。やさしさに溢れた美しい言葉たちに身体がほぐれるのを感じた。目を瞑り、詩の世界を感じることは自分の歌として響いていくことなのだろうか。目の前に座っていた参加者の女性が涙を流していて美しかった。
呼吸とヨーガの時間は、やさしいあたたかい声が響き、その心地よさが私のなかへ入っていった。それが私の中で鏡のように反響して、別の姿へ他者へなってゆく感覚。
みんながこの場そのものと一体となるような、それはまんまると丸になったようなたまゆらだった。
「身体」という器。この存在を、お腹の中の人と、この場にいたみんなと、とても近い距離で感じられたことを幸せに思う。
身体を持つことで、感じられることを、身体を通して知る、ということ。
私は身体を持たない無数のいのちの存在に憧れを感じていた半面、お腹に小さい人が現れ、自分の身体のこと、小さい人のこと、その先にあるものを深く、もっと知りたいとずっと思っていた。
身体いっぱいに両手を広げたとき、手の先から空間を撫で、場と溶け込んだ感覚になる。この手をもっと伸ばしてもっと触れてみたい、感じてみたいと思った。
いろんなことをもっと感じていたと思うが、目の前にいる人たちへ伝えたいが表現できない、言葉にできないという、そんなもどかしい気持ちがつのった。
言葉も感受性もまだまだ足りない気がして、情けなくも思った。
帰り際に、大きいお腹を撫でてくれた。
ジッと感じるように数秒手のひらをお腹に添わせ、小さな人を感じようとしてくれたことが印象的だった。
今夜のことは小さな人の記憶に残るだろうか。
多分思い出すことはないかもしれないけれど、意識していない身体の記憶として、奥深いところに存在してくれたらいいなとは思う。
この世に生まれてきて、あなたが人となった時、
今夜の経験は具体的に存在していないことかもしれないけれど、
きっと違う形で、このあたたかな人たちとの空間が、風が、時間を超えてあなたの中にどうか息づきますように。
私も、言葉で語りつくせないこのいのちたちの壮大さにひれ伏しながら、
そして、のみこまれつつ、このいのちを感じ、見つめ、
また、形にすることで、繋がり、笑い、悲しみ、喜びを持って、
みんなの、このいのちたちを祝いたい。
これらすべてがあなたの中に存在し続け、
困ったときに、不思議な力として
この身体の記憶が、心の道しるべになることを祈ります。
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