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ー電気犬は犬牽の夢を視るか?ー犬牽エッセイ・シリーズ第六話『nintendogs』その③

 日本の伝統的なドッグトレーナー犬牽イヌヒキの目線でアレコレを見境なく語るエッセイシリーズ。
 第六話は連続物として、ニンテンドーDS用ソフト『nintendogs』を取り上げている。
 その①では、私と『nintendogs』の馴れ初めを紹介。
 その②では、犬牽として『nintendogs』をプレイするための下準備を行った。犬牽についての説明も書いたので、是非一読してから③を読んでほしい。
 そしてい、よいよ時は満ちた。
 最終回の今回はついに、犬牽としてゲームをプレイしていく!
 刮目せよ!!

一、選んだソフト

 今回私が選んだのは柴&フレンズ柴犬が最初から選べるパッケージ☟

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 そもそも『nintendogs』は以下のように、パッケージごとに異なる犬種たちが登場する仕様になっている☟

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 左が今回選んだ柴犬、真ん中がチワワ、そして右がダックスフンドのパッケージである。タイトルロール以外の犬種も登場するので、そこは安心してもらいたい。
 ちなみにこの三種類が国内流通の全種類だが、海外版ではラブラドール・レトリバー版ダルメシアン版がある。
 実はイギリスに赴いた際、海外版をゲーム屋で見かけたことがあった。私は鼻息荒く飛びつき、思わず「うわぁぁ!」と声を出してしまったのを覚えている。すぐさま購入しようパッケージを掴んでレジへと飛んだのだが、日本人ということに気がついた店員から「日本のDSでは再生できないかもよ」と言われて諦めたのだった。なんとも親切な店員さんであるが、いつかは機器も揃えやってみたいという夢を私が抱えているのを知る人はいない。

 これまで国内版の三種類ともプレイしてきた私だが、今回は柴&フレンドを選択した。
 正直犬牽としては、実はどのソフトでもよかった。犬牽にはこの犬種だけしか迎え入れない、という縛りは存在しないからだ。犬牽が犬を迎え入れる際に最も重要視するのは、犬の性格だった。確かに犬牽の頭の中には、こういう被毛色・こういう足・こういう肉付き・こういう尻尾etc.の犬を迎え入れたいという身体的特徴に関する知識も備わっていた。だが何よりも、あちらから寄ってくる=人間に対して友好性があるかないかが最も重要視されていたのだ。そのため、この犬種でなければダメ!というくくりはなかった。
 踏み込んで言えば、そもそも明治時代以前の日本では人工的な犬種という概念自体が稀。それを示すように、当時の日本人にとって犬と言えば〝町犬・里犬・村の犬〟だった。彼らは往来を自由に闊歩しながら食べ物や寝床の提供を受ける、現代の野良猫/地域猫をイメージしてもらうといいだろう。そんな犬たちなのだから、勿論血統の管理も受けていない。だからこそ彼らの外見はバラバラであり、更に外来犬が赴くようになれば自然交配も多々起きる。実際に今の日本犬とは異なる外見をした町犬が闊歩していたことは、当時の浮世絵に見て取れるのだ。
  犬牽もそんな犬と日本人の関係性から洩れることなく、繫殖を行うことはなかった。野外を勝手気ままに生きる町犬・里犬・村の犬の中から、自ら寄って来る個体だけを迎え入れていたのだ。そして次に外来犬・ミックス犬・狆も迎え入れてたことから、犬牽が重要視していたのが外見/犬種ではなく中身/性格だったことが分かるだろう。
 だからこそ柴&フレンドを選んだのは『nintendogs』唯一の日本の在来犬である柴犬を選択することで伝統的な日本のドッグトレーナーである犬牽をわかりやすく表現する、そういう現代人の広報的な姿勢があったことを白状しよう。私は、素直な人間なのだ。

二、犬の選び方

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 話が逸れたが『nintendogs』にて犬種を選択すると、三匹の候補犬が現れる。ここから一匹を選んで、迎え入れるのだ☝
 ここで普通ならば、各々外見だとかファーストインプレッションで気に入った仔犬を選択することだろう。
 しかし、犬牽にはここでもルールがあった。基本的に犬牽は、牝犬しか迎え入れないのだ。その理由は、犬牽が担当する犬の役割を見ていくことで明らかとなる。
 犬牽が担当するのは、基本的には鷹犬タカイヌと呼ばれる鷹狩専用の猟犬。鷹犬には、実は牝犬しかなれない。理由は定かではないが、鷹狩が豊穣を願うためのお祭りとして行われていたことは無視できないだろう。元来豊穣を司るのは女神とされ、鷹犬もその仲間/現身として同じ性別を持つ必要があったのかもしれない。また牝犬の方が身体が丈夫+精神的に落ち着きを持った個体が多いという点も、犬の権利を尊重する犬牽としては重要だったのだろう。
 今回は犬牽のスタンダードな部分を下敷きにプレイを進ませていくため、ここでは牝犬を選択する。となると、真ん中か右の仔犬だ。
 本来であれば、犬牽は犬に食べ物を提示して反応を見る。近寄って食べてくれるということは、人間に対してマイナスイメージがない/少ないことを示すからだ。だがゲームのシステム上できないということで、こちらをよく見る(ような気がする)真ん中の柴犬を選択した☟

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 決まったら、名前を付けることになる。
 だが、犬牽が命名した犬の名前はほとんど残っていない。
 数少ない例を見るに、犬が過ごしていた地名+身体特徴(被毛色)=名前という式になっている。神田は永冨町に棲んでいた町犬+白い被毛=〝永富白〟のような感じだ。
 そこで私は最初、公園のある代々木と黒色の被毛を組み合わせて〝よよぎくろ〟にしようかと思った。
 ところが若干長過ぎたのかゲーム側の反応が悪く、その後も色々と試したのだがどうも上手く認識してくれない。やはり短名でハッキリとした名前にしなければ、上手く反応してはくれないのだろう。
 そこで私は代替案として、渋谷区+渋い黒色=〝しぶ〟と命名することにした。
 まぁ江戸時代の犬牽も、普段から長い名前をそのまま言うことはなかったと思う。頭文字を呼ぶよう対応しなくては、素早く意思疎通をすることはできないのだから。

三、家にやってきた犬

 こうして我が家へとやって来た、しぶ。
 ここからは所謂初期設定の時間に入る。つまり名前だったり技=おすわりなどの声認識を行っていくのだ。これが自宅ではできなくて、わざわざ公園へとやって来たというわけで。。。

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 ちなみにおすわりなどの技は、タッチペンで犬を擦る+声認識で覚えてもらう。
 正直、犬牽としてこの工程は辛かった。
 犬牽の初日の対応は、ゲームとはまったく異なるからだ。まず、家にやってきた犬は丁重にもてなされる。犬牽が犬の側を離れることはなく、グルーミングと食べ物の提供が行われるのだ。これまでの環境とは異なる場所にやってくるのだから、犬にとってはたまったもんではない。ストレスが多大にかかり、心身に異常をきたすこともある。だからこそ犬牽は側に居続け、時に野外/トイレへと連れ添い、犬の心のままに夜を過ごしてもらうのだ。
 だからこそ、正直に言わせてもらえば『nintendogs』の初日対応は乱暴だと思う。名前もだが、とにかく技は時期尚早過ぎる。
 そもそも犬牽は犬としての規範から逸脱する技を鷹犬に教えることはない。お座りもお手も教えない。というか、何かを教えること自体あまり見られないのだ。犬牽は犬が持っている犬としての能力=野外にて獲物を捕食する技術を研ぎ澄ますサポートをするに過ぎないのだから
 それも犬が新しい生活圏、なおかつ犬牽との生活に慣れてからでないと行われることはない。犬の心身が整っていない状況で距離を詰めては、ストレス負荷+犬牽に対する不信感に繋がってしまうからだ。
 今回はゲームの進行上、初期設定と重なっているため仕方なく行った。だがその後、犬牽として一切の技をしぶに教えることはなかった。
 今後新作が出るのならば、このシステムについては是非手を加えてほしいと切に願う。時間に追われる現代社会だが、しっかりと相手に合わせて、他者を尊重した対応を行えるようにしてほしい。それが例えゲームの中の犬だとしても、プレイヤーの模範となることがゲームとしての役割として大切なのではないだろうか。それこそ本物の、より良き犬の未来のためには。

四、散歩に出る

 初期設定が終われば、後は自由な時間が始まる。つまり食事・散歩・グルーミング・大会・買物・通信の六つだ。
 言ってしまえば、この六つしか『nintendogs』でやることはないと言ってもいいだろう。
 ちなみに大会障害競技・技披露・フリスビー三つ。ほとんどのプレイヤーはここを目的にゲームを進ませていくと思うのだが、犬を制御しないという思想を持つ犬牽にとって嬉々としてプレイできる内容ではなかった。
 そのため私/犬牽が力を入れるのは、自然と散歩になる。犬牽の散歩は〝遠牽き〟と呼ばれ、三里~四里(約一一・七〜一五・六㎞)の道則を犬が先頭に立って進む。実際に犬牽はこの遠牽きをもっとも重要なライフスタイル/ドッグトレーニングと考え、日々行うことで犬の持つ本能を維持しながら研ぎ澄ますことが叶うと考えた。犬牽が大切にしている犬の権利の尊重が、まさにこの遠牽きに表れていると言えるだろう。
 だからこそ『nintendogs』を犬牽としてプレイした、そう言うためには遠牽きを行うことが欠かせないのだ。
 だが、そもそも『nintendogs』の散歩は以下のように工程方法が決まっている☟

一、タッチペンでコースを描く(公園やペットショップに立ち寄る+落し物を拾う/散歩中の犬に出会うなどのランダムアクションに遭遇するかここで決める)。
二、横スクロールで犬が歩いていく(この際に引綱をタッチペンでタッチし続ける☟ただ放しても犬は勝手に動く)。
三、途中でしたウンチについては拾っていく。
四、予定していたイベント/ランダムイベントが発生する。
五、帰宅。

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 正直、コースを人間側が決める時点で、もはや遠牽きとは言いにくい。
 それでも、試行錯誤を忘れてはいけない。
 私は引綱を緩く持って犬側のスピードに合わせたり、途中で落し物を拾うことを獲物を狩る行為に重ねることで、遠牽きをなんとか再現していった。
 と、思う。
 だって、これを無視したら、この企画は頓挫じゃないか・・・。
 しかし、この試行錯誤が思わぬ結果を生むのだった。

○まとめ

 『nintendogs』を犬牽としてプレイするという企画が始まってから、実はこの記事を書いている時点で早三ヶ月が過ぎた。
 今日にいたるまで、欠かさず毎日プレイしている。
 ハッキリ言って、犬側にそこまで大きな変化はない。
 大会に出るわけでもない。
 技も教えない。
 だからこそ、これといった成果もない。
 ただ電源を入れて、食事・グルーミング・そして散歩/遠牽きを行う。
 その、繰り返し。
 一体自分は何をしているのか?という気持ちになりながらも、もっとも距離の長いコースを設定して遠牽き(らしいこと)をしていく。
 この繰り返しで気がついたのは、プレイ後に感じる精神的疲労が遠牽きのものと似ているということだった。
 これには、正直驚いた。
 遠牽きは、距離が示すように大変身体に来るものがある。
 だが、それと同時に来るのは精神的疲労だ。犬側の意思を尊重するため、自分側の帰りたいとか疲れたとかそういう意思は黙殺しなくてはならない。どんなに体調が悪くたって、犬がやりたいのならば優先しなくてはならない。そのたびに、心は疲弊する。イライラする。でも、致し方ない。そういうものなのだから、自分を律しなくてはならない。
 そんな疲労感と似たものを『nintendogs』のプレイ後に感じられたことは、とても重要な成果だったのかもしれない。 
 確かに、本物の遠牽きに比べると短い時間だ。
 比べようがない、疲労だろう。
 しかし、たった数分だとしても、似た疲労感を得られた。それは私が画面の中のデータの犬に、電気の犬に、本物の犬と同じ存在を感じ、敬意ある姿勢を崩していないことを示していると思いたい。
 私はそこに、私自身の、犬牽としての成長を感じた。
 またゲームの開発者たちにも、敬意の念を感じた。改善点はあるが、それでもこういう気持ちを持てること、つまりは犬が自由な精神を持った存在としてそこに存在すること、そういう隙間を持ったゲームとして生み出してくれたことに、感謝した。 
 ゲームだからと、相手の意思を無視していいわけではない。
 ゲームでも、その意志を尊重する姿勢を持つ/持たなくてはならない。
 それを『nintendogs』は教えてくれる。
 題材に、することができる。
 もしかしたら将来、犬牽の育成のためにゲームが偉大な役割を担う日が来るかもしれない。
 そう思わされる、とても有意義な企画となった。
 と、私は思っている。
 長々と読んでいただき、ありがとうございました。
 ではまた、別のゲームで(?)

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