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私のゆたかな貧乳

※全文を公開している「投げ銭」スタイルの記事です

「いま、私はゆたかな毎日を送っているのだろうか?」

コロナ禍による未曾有の経済危機が世界中を覆っています。今月の家賃が、生活費が、明日の暮らしが……という事態に陥っている方も少なくありません。

私はというと、外出自粛に伴うマイナーチェンジこそあれど、リモートワークでがんばってくれている主人のおかげで、衣食住に不自由することのない毎日をすごしています。ありがたいかぎりです。

リモートで知人の仕事を少し手伝いながら、こうしてnoteに文章を書いたり、新たにnoteサークル「スナックやまま」を開設したり、ポッドキャスト&YouTube番組の「喋りたいことやまやまです」を配信したり……。

子どもがいないこともあり、自分のやりたいことに全力投球できているのです。これを「ゆたか」と呼ばずしてなんと呼ぶ!? 

ムカついて、羨ましくて、私のことをぶん殴りたくなっている読者さんもおられるはずです。

無理な相談かもしれませんが、その拳を少しだけ心のなかにとどめ、もうちょっとだけこの記事を読み進めていただけると幸いです。

自分のことしか考えていない「穀潰し」

さて、こんな「理想的なパート主婦」(一応ちょっとは働いているので、このように自称しています)生活を送る私ですが、罪悪感とコンプレックスは両手からあふれんばかりに抱えています。

これでも2019年までは正社員として会社に勤めていたのです。

「キャリアウーマンになって、独立して自分の名前で仕事をするようになって、お手伝いさんを雇って、欲しいものはいつでもなんでも買える暮らしを手に入れるんだ!」

と、幼いころから夢を描いていました。受験、就職活動、転職活動をがんばり、それなりの仕事に就いてきたつもりです。

でも結局、どの職場でも「そこそこ」の人材にしかなれませんでした。

役職も部下も得ぬまま、新卒として働きはじめてから約10年で結婚を機にリタイア、いまに至ります。

「穀潰し」

それが私の肩書きです。「食うだけは1人前で、役に立たない人」を指すこの言葉は、私にぴったりだと思いました。

その理由は次のとおりです。

・フリーランスになったものの、名刺に書けるようなスキルはない
・だから当然、お金を稼げない
・ブログやポッドキャストなど、お金にならない「趣味」に時間を費やしている
・炊事洗濯、主婦業が苦手
・夫婦ともに健康なのに、私の都合で子どもをもうけていない

ビジネス系のドキュメンタリー番組を観れば、私と同世代のベテラン社会人が「お客さまファースト」の仕事ぶりを語っているではありませんか。

SNSを見れば、友人たちがリモートワークに励みながら育児に奮闘しているではありませんか。

35歳にもなって誰の役にも立てていないどころか、自分の食い扶持すら稼げていないことへの焦りと罪悪感が拭えません。

会社員時代に携わってきたプロモーション企画や広報の仕事、趣味で続けてきたブログ運営などの経歴を掲げれば仕事をいただけるかもしれませんが、どれもプロと名乗るには力量が足りなすぎると感じていました。

それでも最低限は稼がなければと、ライターやWEBメディアの校正などのお仕事をさせてもらっていたのですが、無礼なことに、「私はお金のためにこの仕事をやっているんだ」という気持ちが湧いてきたのです。

その一方で、まったくお金にならない趣味のブログやポッドキャストの更新頻度だけは一丁前。自分自身が嫌になりました。

「読者さんのためによいものをつくろう!」と仕事に邁進して然るべきなのに、結局また自分のことばかり考えているのですから。

お給料はガマン料

お金を稼ぐこと、誰かの役に立つ存在になること、プロ意識を持つこと……それらすべて、社会人として、おとなとして、やらねばならないことです。

専業主婦として「夫の役に立つ」という道はたしかに間違いではありませんが、それは主人が外での仕事に集中できるよう、家のなかのいっさいを担っていればの話です。

私が幼いころ、主婦だった母はそのすべてをやりくりしていました。ここまでやってこそ、主婦業を「仕事」認定できるのです。

(父が掃除をするのは愛車だけで、掃除機をかけたり、ゴミを出したり、洗濯物をたたんだりする姿など見たことがありません)

価値ある仕事とは辛いもの。

逆をいえば、楽しかったり、リラックスできたりするようでは仕事になっていないのだと思っていました。

新入社員のころ、上司に「仕事はどうだ」と尋ねられて「楽しいです」と返したとき、「それじゃあまだまだだな」と言われたことは忘れられません。

転職先の上司も「お給料はガマン料だから」と言いながら中間管理職の仕事に立ち向かっていました。

みんな「自分より他人」「やりたいことより、やらねばならぬこと」を優先しながら、自身と家族の生活を守っているように見えました。

それが「正しいおとな像」なのであれば、対照的な私は「悪いおとな」です。

だから少しでも「悪さ」を軽減しようと、「やりたいかどうか」ではなく「できるかどうか」で商売をして、少しでも稼いでいこうと思いました。

そこでブログ内の自己アピールページに「文章書けます」「企画書つくれます」「広報のお手伝いできます」などと列記してみることにしました。

しかしながら、すべての項目に「その道の専門家ではないのでご容赦ください」という注釈をつけたくなってしまったのです。

その気持ちは報酬額に反映されました。

「安すぎれば自分が満足できないし、かといって高すぎると罪悪感がわくし……」

結局、お客さまも自分もいまいちハッピーになれない、中途半端な金額設定になってしまいました。

考え方を変えないかぎり、幸せになれない

そんな悩みを信頼している知人に相談したところ

「求められていないことをがんばろうとして、できなくて、ひとりで勝手にがっかりしているように見えるよ」

「辛いことでなければ価値がないと思っていない?」

「ブログやポッドキャストをただの趣味だと言っているけれど、やままさんの投稿に救われているファンもたくさんいるよね。それは価値がないことなの?」

「ご主人がやままさんを養っているのは、家事を全部やってくれるからではない気がするなあ」

こうした言葉をかけてくれました。

「あなたには生まれながらに価値がある」とか、「あれもこれもできてすごいのに、なんでそんな謙遜するの」といった言葉をかけてもらう機会は、これまでもしばしばありました。

ただ私が自分自身を受け入れられていない以上、それらの言葉は誰か別の人に向けられているように感じていたのです。

でもこのときは違いました。

「求められていないことをがんばっているように見える」

という言葉を機に、ずっと信じていた「肩書きを背負って、ガマンしながら滅私奉公の姿勢でしっかり稼ぐ人」という「正しいおとな像」を見つめ直したくなったのです。

それは「このまま"理想像"を見上げ続けるかぎり、私に幸せはやってこない」ということを、どこかで悟っていたからでしょう。

私だって、どうせなら幸せに生きたい!

環境や立場は一朝一夕で変わるものではありませんが、考え方やモノの見方は自分の意志次第で少しずつ変えられるはずです。

そう感じた私は白い紙を取り出して、

・「がんばらなくてもできること」
(やりたいことや得意なこと、習性)

・「がんばってやろうとしていること」
(理想像に近づくため、罪悪感を軽減させるためにやっていること)

をリストアップし、「考え方改革」に挑みました。

肩書きだけでは価値は生まれない

リストアップした結果は、図のとおりです。

200517_スタンスの確立

「できること、勝手にやってしまうこと」に書いた自分像をまとめると

「フットワークは軽いけれどおっちょこちょいで、いつも誰かに助けてもらっている」

そんなタイプなのだとわかりました。サザエさんのようなイメージが浮かんできます。

一方の「がんばってやろうとしていること」に書いた、いわゆる「理想像」をまとめると、

「ある領域のプロとして社会に貢献するしっかり者」

といったところでしょうか。NHKの「プロフェッショナル」で特集される人のようなイメージです。

さらに、キーワードとして明記していませんが、前者はお金を稼いでおらず、後者はがっちり稼いでいるような印象も持っています。

こうして目の前に書き出してみると、「素の私(図でいうと左部分)には価値がない」という考えを持っている以上、いつまでも劣等感を抱えたままになってしまうことが改めて見えてきました。

そこで私は、「価値がある」とはどういうことなのかを自問したのです。

200517_スタンスの確立3

立派な肩書き(職種)がなければ価値がないのか? 

社会全体の役に立たなければ価値がないのか? 

お金を稼げなければ価値がないのか?

「そりゃそうでしょう!」と言いたくなる気持ちをぐっとこらえて、自分のなかの「あたりまえ」を疑いながら考え直しました。

まずは肩書きです。

たとえば士業に携わっている人と、スーパーでレジ打ちをしているパートさんであれば、どちらに価値があるのでしょうか。

「弁護士をしています」などと言われようものなら、脊髄反射で「うわっ、すごい」と思ってしまうのがいつもの私です。

でもその人が渋々、つまらなそうに働いていたらどうでしょう?

かたやパート主婦と侮るなかれ、過去に放送されたNHK「プロフェッショナル」では、アルバイトとしての仕事ぶりが評価されて、社員として大活躍している方が紹介された回があります。

つまるところ、価値が肩書きを手繰り寄せることはあっても、肩書きありきで生まれる価値なんてものはないということです。

安直に「自分には価値がない」と思うのは失礼だった

次に「社会の役に立てている=価値がある」という判断基準はどうでしょうか。

これまで私は「多くの人の役に立てなければ価値はない」と思っていた節があります。もちろん自身のことも「たいした価値のない人間」扱いをしていました。

でも自宅で主人と一緒にいると、「この人にとって、私はかけがえのない存在なのだな」と感じることがあるのです。

好きだの嫌いだの、色恋沙汰を超えた「代えがきかないチームメンバー」とでもいいましょうか。親が私のことを大切にしてくれているのとはちょっと違う、「必要とされている感覚」を抱きます。

我が家というチームは、私なしでは動かなくなっているのです。そんな私は本当に無価値なのでしょうか? 

YESといえば、それはチームに引き入れてくれた主人の価値をも否定することになります。そんなのはおかしい。私は必要とされていて、まちがいなく価値があるのだということを認めざるをえません。

そこからの連鎖で、「お金を稼げなければ価値がない」という考え方にも偏りがあったことに気づきました。

私に価値があり、必要な存在だから、主人はごく自然に養ってくれているのではありませんか。それなのに当の私が「自分には価値がない」などと言うのは、なんとも失礼な話です。

「稼ぐ対象とは”お金”だけではないのだ」という意識改革のヒントを得たのもこのタイミングでした。

養ってもらう、困っているときに助けてもらう、情報をもらう、励ましてもらうなど、「存在価値への報酬」の形はいろいろです。それらの行動は、お金に換算したらウン十万円もすることだってあるでしょう。

なにより「私は稼げないから無価値な人間だ!」と言うのは、助けてくださる方々を貶める行為です。私に価値を感じてくれるからこそ、手を差し伸べてくれているのですから。

「困ったときに助けてもらう確率が高い私は、ある意味”高収入”なのかもしれない!」

そんなふうに思えてきました。

200517_スタンスの確立2

こうして外出自粛期間にじっくりと時間を使い、頭を整理していくうちに、長年抱えていた「私には価値がない」という思い込みが少しずつ溶けていくのを感じました。

「メガネを外した感覚」と表現したほうが近いかもしれません。少なくとも「穀潰し」という肩書きをおろすことができたのです。

貧乳コンプレックスの思い出

老子がいう「足るを知る」の感覚をつかんだとでもいいましょうか。この心地を過去にどこかで味わった気がして、思い出したのが「貧乳問題」です。

唐突ですが、私にはおっぱいがほとんどないのです。

そのことに焦りを感じ始めたのは小学生のころ。当時、幼馴染でひとつ歳上のEちゃんの家族といっしょに旅館に行くのが毎年の恒例行事でした。

歳を重ねるごとにきれいなお椀型になっていくEちゃんのおっぱいを横目で見ながら、「私も来年になったらきっとあんなおっぱいになるのだろう」と思っていたものです。

ところが私のそれは1年経っても2年経っても、お椀どころか茶托にもなりませんでした。

生理が来れば、性交渉をすれば、プエラリアサプリを飲めば、なんでも願いが叶うという◯◯ネックレスを買えば……といった具合で希望を持つも、ことごとく裏切られました(ネックレスはお年玉をはたいて本当に購入!)。

当時好きだったお笑い番組や深夜ラジオでは、大好きな芸人さんたちが巨乳を礼賛していました。

同級生の間で流行っていたファッション紙のモノクロページには、大切なときに向けた下着選びの話が書かれていました。

胸は膨らまないのにコンプレックスだけが大きくなっていく日々です。

友人と出かけたときにランジェリーショップに立ち寄ることになり、流れでAカップのブラジャーを買ってみたものの、スキマだらけで着られなかった無念も忘れられません(店員さんにサイズチェックを薦められたのに、貧乳が恥ずかしすぎて断ってしまったのです)。

さらに嫌になるのが、高校生時代の私は太っていたということです。こんなにお肉がいっぱいあるのに、なぜ胸部にいかないのか! 内山信二くんの胸のほうが豊満だったと思います。

修学旅行では生理中だと嘘をついて大衆浴場を避け、通販でAサイズ未満の小さくて地味な下着をリピート購入する思春期を送りました。

異性との交際を意識する年齢にもなると、まだ見ぬお相手に「おっぱいがなくてすみません……」とひとり落ち込んでは豊胸エクササイズに励んだものです。

「小さな胸」は私の個性に最適化されたパーツだった

とにかく「貧乳コンプレックス」に苛まれていた青春時代だったのに、いつからかおっぱいについて悩まなくなっていました。

生理だと嘘をついてまで大衆浴場を避けていたのに、いまとなっては大手を振ってスーパー銭湯を歩いています。隣にいる小学生のほうが巨乳であることもしばしばですが、平常心のままです(小学生の方はたまげているかもしれませんが)。

別に「人は人、私は私の魅力がある!」「茶托おっぱいが好きな人だっている!」といった妙なポジティブシンキングをしているわけではありません。ただただ、受け入れてしまったという感覚です。

名もなき「みんな」が理想として掲げる「おっぱい像」と現実のギャップにがっかりし、差を埋めようと躍起になるのに疲れてしまったからだと思っています。

グラビアタレントを目指しているわけでもなし、豊胸なんて自分以外の誰にも求められていないのです。私ひとりが息巻いているだけでした。

勝ち目のない「巨乳レース」にエントリーし、最下位グループで全力疾走していたようなものです。

だんだんと自分の立ち位置に気づき、がんばっても無駄だと悟って戦線離脱したのでした。

でもそれは言い換えれば、「人が”貧乳”と呼ぼうがなんだろうが、この”小さな胸”は、私に最適化されたパーツだと理解した」ということでもありました。

肩幅ががっちりしている割に太って見えないのは貧乳のおかげだし、購入する下着が決まっているので、お店に行って選んで悩んでという手間もかかりません。私は女性らしい服装を好まないし、プールや海も好きではないので、胸の小ささで困ることがほとんどなかった!

しゃかりきになるのをやめたら、そのままの自分がとても快適だということに気づいたのです。

肩の力を抜いてこの境地に至ることを、「ゆたかになる」と呼ぶのではないでしょうか。

ゆたかさって何だろう

外出自粛期間に向き合った「自己否定」も、過去に苛まれた「貧乳コンプレックス」も、社会や他人との比較でいろんなことを気にするあまり、小さな物がよく見えるメガネをかけた結果だと思っています。

メガネのおかげで見えるものが増えたのに、かえって自分の不足点ばかりが目につくようになって、焦って、空回り。エネルギーだけがどんどん放出されて貧しくなっていました。

きっと人は、ありのままで「ゆたかな存在」なのです。

足りないものを補おうとムキになったり、ポジティブシンキングで自分を励ましたり、自信過剰になったりするのではなく、ただただ、ありのままの自分を受け入れるだけで、人はゆたかになれます。

こう書くとラクなことのように見えますが、情報が行き交い、人が他人に「善い」「悪い」のジャッジを下す日々のなか、ノイズに左右されることなく「そのままの自分」を見つめるのは至難のわざです。

「ありのままを受け入れるって、結局どういうことなの!」と思われる方も多いことでしょう。

貧乳コンプレックスを乗り越え、自分の価値を認められるようになりつつある私が言えるのは、

「飽きるまで脳に汗をかけばいい」

のひと言です。

悩むときは、自分を受け入れろと言ったって悩んでしまうもの。それでいいと思うのです。

誰かに相談したり、本を読んだり、インターネットで情報を集めたり……私も悩み続けてきました。

そうしているうちに絶対、どこかで飽きたり、疲れたりします。そうすればしめたもの! 分厚いメガネを自ら外してしまうことでしょう。

そして目の前にいる「ありのままの自分」がしっくりくるはずです。散々悩んで疲れたからこそ、自然に受け入れられるのです。

ゆたかさとは、

「宝物を探して悩み苦しんだ旅の先で気づく、最初から服のポッケに入っていた宝石」

のようなものなのだと、私は思っています。

最後にごあいさつ

改めまして、やままあきです。

インディーズエッセイストを自称して、このnoteやブログ、ポッドキャスト、電子書籍等、いろいろな形でエッセイを発信しています。

よかったら下記情報もチェックいただけたら幸いです。今後とも宜しくお願い致します。

・ポッドキャスト:「喋りたいことやまやまです」 
・ブログ:「言いたいことやまやまです」
・電子書籍:『凡人の星になる』
・電子書籍:『喫茶アメリカンについて言いたいことやまやまです』

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