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ディジタルコンテンツ表現実習:制作 #01

「君にとってのアートとは何かを考え,その代表を3つ挙げてくること」

これがここ2週間の間で課されているお題である.
前回の記事は #00 ということでただ導入に過ぎない記事であったが,今回は具体的に自分のことを考えながらメモに起こしていくこととしよう.

そもそも「自分にとってのアートとは何かを考えよ」とあるが,僕がアートにまつわる表現で最もしっくりきている表現を恩師の言葉から拝借する.
音楽とは何か,表現とは何か 〜恩師の逸文〜(本ブログより)

音楽表現の分野では,音楽家は,まず第一に「技術」の習得の訓練を課せられる.しかし,「技術あって表現なし」と言う言葉があるように,「表現」の内的な必然性や創造性は,「技術」とは別の次元にある.誰であろうと人には必ず,「表現」の必然性,啓示の訪れがあり,真に必要な「技術」は必ず「その人間の必要に応じ」,後からついてくる.
...
では,およそ全ての人が持つ表現の[普遍性]と,多くの人に感銘を与える素晴らしい表現の[特異性],この相反する二つを結ぶものは何だろう.
素晴らしいと感じる表現とは,人がそれぞれの「自分自身の表現」に代替して余りある「飛躍的な高機能モデル」であり,それが時間軸と空間構造の中に姿を現す時,人はそこに,拡張された自分自身の表象を具現的に疑似体験し,感動する.
もちろん,人には個人差があるので,自分自身の延長上にないモデルには興味も示さず感動もしない.だが,素晴らしい表現には必ず[特異な]創造的飛躍があるのに,多くの人が感銘を受けるのは,その飛躍を解読する[普遍的な]コードが共有されている証でもある.

「芸術」という言葉の語義に技術の意味も含まれるように,「表現」という感情なりなんなり内的な何かを扱う部分と,「技術」という技の部分が合間見えたところで成り立つものを,僕の中では「アート」と考えている.

こうなった時に,実は「技術」の部分は割と既に決まっている.
研究でも扱うような光・マテリアル・コンピューター・カメラというところが僕にとっての技術的主戦場であることは実は言うまでもない.
それなりの年月既に取り組んでいるところであるし,これからもそうであり続ける直感もあるので間違い無いだろう.

となると今回のお題できちんと向き合わなければならないのは,内的必然性を孕む僕にとっての「表現」の部分である.
基本的にこういったことを考える際,感情としてプリミティブなものを扱うのが良いというのが僕の経験に基づく姿勢であるので,できる限り幼少の記憶から遡ることとする.

こうして考えていった結果,自分の中にはいわゆる「(感情的)表現」=喜怒哀楽とかそういったものは強く存在しておらず,
ただ,美意識的観点で言えば,神道的価値観をベースにしたものに対しての強い拘りがあることがわかってきた.
(詳細な事実は対面時のみお話しできると思われる)

(※↑京都旅行時のもの)
ここでなぜ神道が出てくるかということだけ少しばかり話すと,これは完全に母親の影響がある.
自分にとって当たり前であったが,他人に対してほとんど口にすることがなかった出来事があるとすれば,それは幼少の頃から神社への参拝によく連れられていたことである.
物心ついた頃から「僕はあなたのことを知らないが,あなたは僕のことを知っている」大人たちによく遭遇していたものだった.このことから,おそらく僕自身が物心つく前からそうした場所に連れられて周りの大人たちに面倒見られていたことがわかる.
そして当たり前のように,神道の価値観を元に作られた空間・建造物・人間の動作(参拝やお祓いを含めたあらゆる行為)を目にし耳にし感じていたわけだ.

ただし注意すべきは,中学3年生の時にこれに関連することで親と決別している事実があることは添えておく.
僕の「神」という存在への態度を示しておくと,「シュレディンガーの箱はシュレディンガーの箱のままである」ということだ.
これはどういうことかと言えば,「神の存在を証明することは非常に困難であり,同時に不在を証明することもまた非常に困難である.そして長い歴史の中でどちらの証明も人間が成功していないのだから,それはどちらとも未だ言えないシュレディンガーの箱である」ということで,更に「人間がその箱を開けることは叶わない」のでは無いかという姿勢を持っている.

そしてこの姿勢に影響してかそうでないかは置いておいて,幼少の頃に形成された美意識をベースに,現実世界に対して自分という人間がありのまま対峙するという状況がずっと続いてきたと言うこともできる.

また人見知り・一人っ子というのもあって,幼少から現実世界の中で妄想・人間観察を繰り返してきた背景もある.

そうして今に至り,出来上がったのが「光とマテリアルによって出来上がった空間の佇まいを美とする感覚」のような気がするのだ.

この感覚が細かくはどういうことなのか,というのは僕自身にもまだわかっていない.もっと神道の歴史から紐解きながら,その感覚と今まで見聞きしてきた経験などを統合する必要はある.
(そこで最近は本居宣長から始めることとした)

その勉強,歴史という道の散策は今後も続けていくとして,ここでは一旦制作の方向に舵を切らねばならない.
そこで僕はモックver0.0を考えることとした.

説明するのは次の記事にしよう.
最後にこれだけ見ていってくれれば良い.
※長い


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