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疚しさと優しさ

姦通を犯した女に石を投げつけようとする手を止めたのは、イエスの、「罪を犯したことのない者が石を投げなさい」という静かな言葉だった。(ヨハネ8:7)
これは彼らが自分たちの罪に対してやましい気持ちがあったことを示している。
ある意味、彼らのその「やましさ」が、罪の女に対する「赦し」を生んだのだ。

僕は自分について「自分にも他人にも甘いところがある」と説明することがたまにある。「優しいよね」と言われたときに、いかに嫌味っぽくなく、また卑屈すぎずに答えられるかというのを回数を重ねる中でいつからか習得した自分の中の決まり文句のようなものだ。
自分が「できない」から、当然他者にも強要せず、また他者の弱さに対して寛大でいられるというそんな自分を、自分でも「自分らしい」と思って、気に入っているところがあった。

牧師としての自分もそうだった。信徒の「どうしても信仰が弱くて…。」との悩みに対して、「頑張りましょう」と激励するよりも、どちらかというと、「分かりますよ」と、その弱さに寄り添う姿勢をとっていたのは、事実として自分がとてもその人を諭せるほど信仰深く生きれていないからだった。
それを周りの人たちは、「謙虚で優しい人だ」と受け取った。
そして自分も、自分は信仰についてそこまで厳格ではないからこそ、弱さに悩む人に寄り添えたり、優しくできるのだという自負さえ抱いていた。
今更ながらそんな自分が心底恥ずかしい。
律法学者やファリサイ派の人たちが石を投げようとする手を止めたことを、「優しさ」だとは全く思わない。だが、自分のそういう姿勢は彼らのその行動とどう違うのだろう。

妥協なく、徹底的に忠実にあり続けながら、それでいて、そうではない人にも寄り添うことこそが、本当の優しさなのだ。
その生涯で一切罪とは無縁だったイエスは、最も弱く、罪深い人々に暖かく寄り添われたではないか。

人に寛大になれるから、と最もらしい言い訳をして自分の罪に対するやましさを打ち消そうとするのをやめよう。誰よりも神様に対して忠実な生き方をしつつも傲慢にならず、それができない人に対しても排他的にならずに弱さに寄り添える、そんなイエスのような人になりたい。


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