ヤマグチ

言葉を読むのと書くのが好き。神学科卒→牧師→福祉関係。書く練習というか、ただ吐き出した…

ヤマグチ

言葉を読むのと書くのが好き。神学科卒→牧師→福祉関係。書く練習というか、ただ吐き出したい場所としてというか、あんまり目的はっきりしないままnoteやってます。

最近の記事

人間をやるのが下手

新約聖書に出てくる有名な話に、四人の人が病気の友人をイエスのもとに連れて行くという話がある。あまりの人だかりでイエスのいる家の中に入ることができなかった彼らは、屋根の上に登ってそこに大きな穴を開け、穴からイエスのいる家の中まで病人を吊り下ろしたという。 なんかこう、もっとうまくできなかったのかな、と思う。 四人が全力で呼びかけたらそこにいた人たちはどうにか通り道を作ってくれはしなかっただろうか。たとえ通れなかったとしても、「イエスを呼んでくれ!」と必死で叫んだらあるいはイ

    • 醜形恐怖症(強迫性障害)

      10代の後半から自分の顔が醜くて仕方なく感じるようになった。どうしても受け入れられなくて、何度も鏡を見ては絶望して、実際に顔を掻きむしったり、顔面を額から顎の下まで全部削ぎ落として別のもっとマシな顔を貼り付ける妄想をしたりしていた。 小学4年生のある時期、いじめなんていう大それたものではなくて、たまたまそのときの「いじり」の対象が自分のギョロッと大きく、少し離れた目に向けられて、「カエルみたい」と笑われた。 一つ下の友達から「おいカエル」と嘲笑われて、何も言い返せずただうつ

      • 周りに合わせるばかりだと自分の形が少しずつ欠けていって、結局本当のところでは誰とも合わなくなってしまう気がする。パズルの角が削れてカチッとはまらなくなってしまうように。 「誰とでもうまくやれる」というのは、その分だけ自分の形を削っているということ。

        • 疚しさと優しさ

          姦通を犯した女に石を投げつけようとする手を止めたのは、イエスの、「罪を犯したことのない者が石を投げなさい」という静かな言葉だった。(ヨハネ8:7) これは彼らが自分たちの罪に対してやましい気持ちがあったことを示している。 ある意味、彼らのその「やましさ」が、罪の女に対する「赦し」を生んだのだ。 僕は自分について「自分にも他人にも甘いところがある」と説明することがたまにある。「優しいよね」と言われたときに、いかに嫌味っぽくなく、また卑屈すぎずに答えられるかというのを回数を重ね

        人間をやるのが下手

        • 醜形恐怖症(強迫性障害)

        • 周りに合わせるばかりだと自分の形が少しずつ欠けていって、結局本当のところでは誰とも合わなくなってしまう気がする。パズルの角が削れてカチッとはまらなくなってしまうように。 「誰とでもうまくやれる」というのは、その分だけ自分の形を削っているということ。

        • 疚しさと優しさ

          ゆっくりと話がしたい

          『愛と癒しのコミュニオン』という、以前出席したあるセミナーで紹介された本の中の、「ドイツ人神父と犬」という短い話がとても印象に残っている。そのセミナーの内容は新型コロナウィルスの蔓延によって傷んだ人々に対して教会が行うべきグリーフケアについてだった。 あるドイツ人の神父は、少年の頃の一つの出来事がきっかけで神父を志すこととなった。 彼は少年時代、優秀な兄といつも比較されて落ち込んでいた。勉強も運動もできる兄と違って色々なことがうまくできない彼に、親は毎日厳しい言葉をかけた。

          ゆっくりと話がしたい

          捻くれ者のぼやき

          何か良くないことが起こるとすぐに、「これも神様の御心でしょう」と言うクリスチャンに、どうしても共感できない。正気かよ、と思ってしまう。その人たちは突然隕石が落ちてきたとしても同じことを言うのだろうか。 「このことを通して神様が何か教訓を示そうとしてくれている」などという流れからお決まりかのようにエレミヤ29:11を引用でもされたら辟易してしまう。 「御心」という言葉を即座に出されることにどうしても抵抗感を覚える。失くした大切な物が見つからないときや思いがけない事故に遭ってしま

          捻くれ者のぼやき

          苦しみなんかなければいい

          僕たちは苦しみのある世界に慣れすぎている。黙示録にある天国の描写には、「もはや死も悲しみもない」(黙示録21:4)と書かれてある。キリスト教徒が憧れる天国には、苦しみや痛み、嘆きや失望も存在しない。しかし、「苦しみのない世界」の素晴らしさは、どうも苦しみが存在することが当たり前の私たち人間にはあまりピンと来ないらしい。 苦しみの存在しない天国の素晴らしさを伝えようとすると、大抵の人は首を傾げ、自分の経験を交えながら、苦しみがあるからこそ強くなれる、成長できるのだと反論する。苦

          苦しみなんかなければいい

          生命そのものを尊ぶということには、それがどれだけの悪人であろうとその人の尊厳を認めるという覚悟が必要 「生きているだけで価値がある」と言えば聞こえはいいが、多くの場合その言葉を発しながらも心の奥底では大量殺人鬼のような極悪非道な人はその対象から無意識に除外しているのではなかろうか

          生命そのものを尊ぶということには、それがどれだけの悪人であろうとその人の尊厳を認めるという覚悟が必要 「生きているだけで価値がある」と言えば聞こえはいいが、多くの場合その言葉を発しながらも心の奥底では大量殺人鬼のような極悪非道な人はその対象から無意識に除外しているのではなかろうか

          「伝道」に対する違和感

          僕にとって「伝道」というのは、「伝える」ではなく、「伝わる」という感覚に近い気がしている。クリスチャンとして致命的なほどに僕には「伝える」ことへの情熱がない。これまでの人生でおそらく僕は一度でもクリスチャンではない人に、「教会においでよ」とか「神様信じなよ」というようなことを言ったことがない。もちろんそれは元来の遠慮がちな性格が要因ではあったと思うが、それ以上にそのようないわゆる「伝える」ということに対しての違和感があったからだった。 アメリカで文書伝道(キリスト教の本を訪

          「伝道」に対する違和感

          湖のほとりを歩かれたイエス

          イスラエルの北部に位置するガリラヤ湖はイエスがよく好んで歩かれた場所でした。マルコの福音書では1章から4章までだけでも、記録されている限りでは3回ガリラヤ湖に足を運んでいます。湖のほとりには恵まれた気候で様々な植物が美しく茂っており、よほどイエスのお気に入りの場所だったことが窺えます。 私はこの、湖のほとりを歩かれたイエスにとても親しみを感じ、同時に大きな慰めを覚えます。 自然の中によく身を置かれたイエスには、当時の律法学者たちや祭司たちにはない、素朴さや親しみやすさがあっ

          湖のほとりを歩かれたイエス

          「必要なもの」と「欲しいもの」

          「必要なもの」と「欲しいもの」は似ていますが、少し違います。ティッシュがなくなれば「必要」にはなりますが、それが「欲しい」かと言えばそうではありません。そして大抵の場合、「欲しいもの」の方が、「必要なもの」よりもそれを手に入れたいという気持ちは強いはずです。長年欲しかったものをやっと手に入れた時の嬉しい気持ちを、必要だったティッシュなどの日用品を補充した時には感じないのです。 神様はある意味で私たちのことを「欲して」、私たちを造られました。 生きるために空気や食事に依存して

          「必要なもの」と「欲しいもの」

          「起きて、歩きなさい」

          ベテスダの池と呼ばれる場所で38年間病に苦しむ男がいました。 彼は失望していました。 イエスが「良くなりたいか」と尋ねた時、彼は力なく「誰も私を助けてくれないのです」と答えます。 「もうどうしようもないんです」とうつむいて答える人に対しては、何を言っても効果がないように思います。 失望しきった人の心にはどんな励ましや慰めの言葉も届かないのです。 そんな人に対してイエスは「起きて、歩きなさい」と命じられました。 無謀に思える言葉です。 彼の失望具合から考えると、「何度も試し

          「起きて、歩きなさい」

          誰にも見せられない自分がいる人へ

          誰しも人前では少なからず「強い自分」を演じていると思います。 本当は辛いのに、「大丈夫だよ」と笑顔を作ったり、誰にも相談できない悩みや弱さを抱えていたりと、誰にでも隠れた一面、人には見せられない一面があるのではないかと思います。 私は精神的に脆いところがあります。波があるのですが、ひどい時には人前に出ることもできず、塞ぎ込んでしまいます。そんな自分の姿は誰にも見せられません。自分の身内にさえ、そんな弱さを持っていることを話せたのはつい最近のことです。それほど人前に出る時の自

          誰にも見せられない自分がいる人へ

          降りて来なさい

          イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』(ルカによる福音書19:5) 背の低かったザアカイがイエスを一目見ようと木の上に登りました。そのザアカイに向かってイエスは「急いで降りて来なさい」と声をかけられます。これは文字通り木から降りて来なさいという意味であると同時に、象徴的な意味合いも含まれていると考えられます。この言葉には簡単に読み過ごすことができない深みがあるように思います。 イエスは木の下か

          降りて来なさい

          福音書にみるイエスの姿(マルコ5章)

          イエスが育ったナザレは貧しい村でした。ガリラヤの暑い日差しの下で地べたに座って物乞いをする人々の姿は日常的な景色でした。貧困に喘ぎ、病に苦しむ人々を見たイエスの目には彼らに対する憐れみの想いが溢れていたはずです。 イエスは「悲しみの人で、病を知ってい」(イザヤ53:3)ました。 聖書には詳細に描かれてはいませんが、イエス自身もこのナザレの村で育った青年期には様々な苦労を経験したはずです。家族を支えるために大工仕事で汗を流しました。決して楽な生活が保障される仕事ではありませ

          福音書にみるイエスの姿(マルコ5章)

          クリスチャンは、悲しむ人

          「ペテロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」 (マタイ26:75) 「ラビ」と呼んで付き従ったイエスを「あの人」と呼び、呪いの言葉さえ口にしながらイエスとの関係を否定したペテロは、大声をあげて激しく泣きました。 絶対あなたを裏切りません、と豪語したにもかからわずイエスを裏切ってしまった自分の弱さにペテロは人目も憚らず涙したのです。 ペテロのように自分の弱さに悲しむ人のために、山

          クリスチャンは、悲しむ人