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福音書にみるイエスの姿(マルコ5章)

イエスが育ったナザレは貧しい村でした。ガリラヤの暑い日差しの下で地べたに座って物乞いをする人々の姿は日常的な景色でした。貧困に喘ぎ、病に苦しむ人々を見たイエスの目には彼らに対する憐れみの想いが溢れていたはずです。

イエスは「悲しみの人で、病を知ってい」(イザヤ53:3)ました。

聖書には詳細に描かれてはいませんが、イエス自身もこのナザレの村で育った青年期には様々な苦労を経験したはずです。家族を支えるために大工仕事で汗を流しました。決して楽な生活が保障される仕事ではありません。兄弟たちからは疎まれていたことが福音書の記述から分かります。また、この多感な青年期にイエスは父親を亡くすという経験をしていたことも考えられます。

イエスは苦しみを抱えている人に同情できない方ではありませんでした。苦しむ人を放っておくことができない憐れみ深さを持っている方でした。そんなイエスの愛に触れたたくさんの人々が福音書に描かれています。イエスと関わった多くの登場人物たちに自分自身を重ねて物語を読むとき、イエスの愛に感動せずにはいられないのです。

福音書の中に、12年間病に苦しむ女性が登場します。

「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」(マルコ5:24,25)

彼女の抱えていた苦しみは、病による身体的な苦痛もさることながら、「ひどく苦しめられ」と書かれていることから分かるように、周りから受けた差別的な仕打ち、その精神的な苦痛が大きかったと想像できます。12年もの間、誰にも愛情を向けてもらえないという彼女の孤独はどれほど辛かっただろうと考えると、心が痛みます。そんな中、彼女はイエスの噂を耳にし、一縷の望みを抱いてイエスのもとに行きました。癒されたい一心で目一杯手を伸ばしてイエスの服に触れたとき、彼女は12年間の苦しみから解放されました。

この物語で私の心を動かすのは、ほんの一瞬だけイエスの服に触れた彼女の思いに気づかれたイエスの姿です。弟子たちは「誰があなたに触れたかなんて分かるはずないでしょう」と言いました。彼女の人生は、誰の気にも留められない人生でした。「汚れたもの」として扱われ、12年間人と離れて生きていかなければならなかった彼女が心の奥底で求めていたのは、人との関わりであり、優しい言葉でした。それをイエスはよくわかっていたのだと思います。誰も気にしなかった彼女の行動にイエスだけは気づき、振り返って彼女に声をかけました。病気は治ったのだからそのまま帰してもよかったところを、イエスはあえて彼女を引き留め、「あなたの信仰があなたを救った。もう病気にかからず、元気に暮らしなさい」と励ましの言葉をかけました。

このようなイエスの姿を見ると、イエスは私の抱えている苦しみにも必ず気づいてくださり、優しく寄り添ってくださる方だと確信することができます。私たちが抱える、誰にも理解されないような苦しみをイエスだけは理解して、慰めてくださるのです。

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