捻くれ者のぼやき

何か良くないことが起こるとすぐに、「これも神様の御心でしょう」と言うクリスチャンに、どうしても共感できない。正気かよ、と思ってしまう。その人たちは突然隕石が落ちてきたとしても同じことを言うのだろうか。
「このことを通して神様が何か教訓を示そうとしてくれている」などという流れからお決まりかのようにエレミヤ29:11を引用でもされたら辟易してしまう。
「御心」という言葉を即座に出されることにどうしても抵抗感を覚える。失くした大切な物が見つからないときや思いがけない事故に遭ってしまったとき、「これも神様の御心だと信じましょう」などと言われると、「やめてくれ」と思ってしまう。
すぐに「これも神様の御心」と納得しようとするそれはもはや信仰と呼べる代物ではなくて、むしろ信じようとすることから逃げているような、およそ信仰とは真逆の行為に僕は思えてしまう。

信じる、というのは自分にとって、「神様が自分を愛してくれていることを信じること」だ。冷静に考えれば到底信じられないことなのだが、大宇宙の支配者である神様がこの小さな僕を、本当に何故なのかは分からないけれど、命を捨てるほどに愛してくださっているということを、徹底的に信じ切ること、これが信仰なのだ。だとすれば、信仰が、神様の愛を信じるということだとするならば、「これも神様の御心だから」とは絶対に言えない。「これも神様の御心だから」ではなくて、「これが神様の御心のはずがない」と言うはずなのだ。
どうして納得しようとするのだろう。どうして、「私を愛している神様が、私をこんな目に遭わせるはずがない」と言わないのだろう。

クリスチャンの中には、何かそう思ってはいけないというような空気感を感じる。
疑ってはいけない、どんなことがあっても御心と思って受け入れないといけない、といった具合に。もしそうだとしたら、聖書の主要な登場人物たちは、みな現代の教会から白い目を向けられることになるだろう。
イエスだって「御心のままに」と最初からは祈れなかった。その祈りができるまでに、血の汗を流して何時間も激しく戦った。全人類の罪の重荷を背負って十字架にかかることに最後まで抵抗したのだ。
三度目にようやくそう祈って十字架への決意を固めたのが、少しも起きていられない弱い弟子たちを見た後だと知ったときの感動は大きかった。
イエスが、「主よ、罪からの救いのために十字架にかかることができて感謝します」とは言わずに、最後まで苦しみ悶えながら「父なる神様の御心と戦った」ことに僕は慰めを感じる。

「神様、そんなはずないじゃないですか」「あなたは私を愛してくださっているはずじゃありませんか」と祈っていいはずだ。そしてその祈りはやはり苦しいものだろう。納得してしまう方がはるかに楽である。しかし、そんな苦しい祈りの末に見えるものにこそ価値があるのではないだろうか。

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