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これからの時代のサバイバル術としての趣味性と個性

 趣味を仕事にするということが言われることがあります。しかし趣味とはそもそもどんなことなのでしょうか。

 趣味と対立する言葉は仕事でしょう。仕事は活動であるのは確かですが、好きでやっているとは言えないものでしょう。それでは好きでやっているか、かいやいややっていることが本質的な違いなのでしょうか。仕事はいやいやっていたとしても企業の中で利益に繋がっている限り、社会の役に立っています。誰かがものやサービスを欲しがっていることに繋がっているからです。

 逆に趣味は好きでやっていても、社会の中で役に立っているのかどうかは怪しいものが多いです。こうやって文章を書いていることも、果たして人の役に立っているのか怪しいからです。それでは趣味とは社会にとって意味のない活動なのでしょうか。

 もう一度「超AI時代の「生き方」」を拾い読みしているといろんな事が書いてあります。

そういうように、なにかの信仰に属することというのは、これからは価値が非常に多様化していく中で、個人が道を見失い憂鬱にならならないためにも重要だ。行動していく原動力として非常に重要になってくる。

落合陽一 著 超AI時代の生存戦略

 「趣味性」は、生まれ持った肉体にひもづいたフェチシズムのことだと僕は考えている。
 それは自分が拭い去れない、個性の裏返しだ。物理的なハードウェアや幼少の環境に起因している。仕事で個性を出せない人も、趣味では特筆的に個性があったりする。趣味性とは、「別に誰にも制約されていないけれど、何となくやってしまうこと」で、それを大切にしていないと能力による個性が消失すると自信が失われてしまう 。

落合陽一 著 超AI時代の生存戦略

 ここでは機械によって代替されないものとしての個性として趣味性は書かれています。つまりAI時代のサバイバル術として個性が必要とされていて、その個性が発揮される場として趣味が想定されているわけです。信仰というのも宗教を想定しているわけではなく、たとえば起業してビジネスで世界を変えていくとうような信仰を考えています。

 19世紀のイギリスの思想家であるJ.S.ミルは、自由な意見は様々な精査を受けやすいことによってより良い社会に貢献するとしました。それと同じように多様な趣味性で表せる個性はよりよい社会をつくると言えるかもしれません。

 ただそれが、これからの時代のサバイバル術として語られるのはいいことなのか、悪いことなのかよくわかりません。別の見方をすれば個性とは商品になることでもあります。趣味性が仕事になるとは商品として流通することでもあるからです。個性は売り物になる。いつの時代もそうだったのかもしれません。

 一方で、趣味性とは個人の深いところに根ざした享楽のあり方です。世界から快楽を引き出すものとも言えます。そこに可能性を見出したい気持ちはあります。落合陽一も、そう言いたかったのかもしれません。ただサバイバル術として提示するのが、わかりやすいと考えたのかもしれません。

 趣味性を失ったら、もう働くだけの機械と変わらないというのはわかる気がします。

 


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