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組織的に動くことは支配です。しかし共同なしではどうになりません。 

 こういう場面を考えてみます。拳を握りしめ腕を前におもいきり突き出します。普通それは殴ると言うと思います。でも仮に、あなたは工場労働者であり、機械の前に立っているとします。機械からは不快な異音がします。どうやらカバーとギアが擦れているようです。

 そこであなたはカバーめがけて拳を突き出します。するとカバーが変形し、ギアとこすれることがなくなり、不快な異音もやみました。そしていつものように作業を続行します。

 今度はこういう場面を考えてみます。あなたは違う工員にある作業をやってもらうように言います。

 ところが言った工員は作業に着手しようともせずに、スマホを取り出すと何やら画面を眺め、入力をはじめました。すぐに作業に取り掛かるように催促しますが、聞く様子はなく画面をただ眺めています。

 腹がたったあなたは拳を握りしめ腕を前に突き出しました。拳は工員の顔面に当たり、「イテー」と叫び声を上げました。

 この2つには共通した拳を前に突き出すという行為があります。しかし一方は生産的であり、一方は暴力と言われるでしょう。2つの違いは何でしょうか。

 殴るという行為は身体の力の発露です。私達は身体を持っていて、身体はその使い方によって外部に対する干渉を行うことができます。それが物であれ、人であれ外部の者に力を及ぼすことができます。ただ考えるだけとは違う力を発揮することが身体にはできるのです。

 生産現場とは物に干渉し、物を加工することによって価値を生み出します。そもそも労働とは外部に働きかけることであって、人間の能力をしめすものです。それは巨大で一人ひとりの力は小さくとも集積することによって、世界そのものを作っていきます。

 労働によって成し遂げられたものは凄まじく、今や地球全体を変えてしまうほどです。先ほどの例のように暴力と労働とは世界に干渉する力の発揮という本質を共有します。結局力をどう組織するかに、よって何者にもなりうるということかもしれません。

 スピノザは善いとは組み合わせだと考えました。力が増大する組み合わせはよく、減少する組み合わせは悪いと考えました。カバーを殴った方は生産をとうして製品が作られるので善いことです。

 工員を殴った方は殴られた工員の身体は傷つき力は減少しました。だから悪いのです。しかし、もし殴られた工員が渋々作業に取り掛かり、生産が行なわれたとしたらどうでしょう。これは結果的に善いことになるのでしょうか。

 多分これには支配や強制ということが関わっているのだと思います。会社で働くとは強制を伴うことであって、それは支配を受け入れることです。支配が悪いことになると会社で働くことは全て悪いことになりそうです。一方で会社で組織的に働くことによってひとりでは成し遂げられないようなことができるのも確かです。

 昔であれば暴力によって強制するというのは会社のためであれば肯定されるということはあったかもしれません。それは全体としては善いことだという文脈はあったかもしれません。現代では厳しいように思います。結局良いことのために意志に反して強制することは善いことなのかという問いなりそうです。

 でもこの問いには一般的には答えはないかもしれません。ケースバイケースでなるべく良い方向に持っていくのが実際問題かもしれません。

  

 

 


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