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「西部戦線異状なし」をみて その2 世界大戦は死の欲動を生み出した

 フロイトは精神分析の創始者として有名です。フロイトは快感原則があると考えていました。快を好み不快を避ける行動を人間はすると考えました。快とは緊張の緩和であって興奮状態が緩和されることで快が得られると考えられています。

 緊張の緩和であって、緊張そのものではありません。しかし第一次大戦の帰還兵を診て、その悲惨な体験をフラッシュバックするのを快感原則だけでは説明できないと考えました。

 そこで1920年に「快感原則の彼岸」をだし、そのなかで死の欲動というものを考えます。生物は始原である無生物に帰る欲動を持っていると考えました。生の欲動と死の欲動があると考えたのです。実際何故快を求めて生きているはずの人間が辛い体験を何度も反復してしまうのかは不思議です。

 やな事があったときに、くよくよと考えまいとすればするほど考えてしまうのはなぜなのか。いいことばかり考えればいいはずなのに不思議といえば不思議です。後にラカンは秩序が壊れるときに発生する享楽というものを考えました。

 たぶん無意識と呼ばれるような何かシステムが有り、そこから意味は生み出されているのでしょう。しかしそのシステムが揺らぐとき享楽を得ます。それはわかる気がします。何かが破壊されるとき快楽とも違う、喜びのようなものが発生します。

 だから破壊というものは享楽を伴うものであって、それを求めてしまうものなのでしょう。はたして享楽は物質に帰るのを求めているのかは、私にはわかりません。私が死ねば物質に帰ることは確実です。

 第一次大戦が死の欲動の理論を産んだわけです。戦争というのは巨大で理解しがたいものです。兵士の死も一部ですし、突撃命令を出す司令官も一部です、戦争を終わらせるために外交を行う外交官も一部です。

 映画はそれらを映すことによって、私一人がこの目だけで見る現実でなく、より大きなものを画面に映し出します。私はすべてを知ることはできません。しかし見ることはもっと大きな可能性があると思います。

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