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短編小説 「フリートの空」 原稿用紙10枚

         フリートの空   

                    山田スイッチ

 生まれてくる前、私たちは手足を丸めてあたかいお母さんのおなかの中にいました。そこには空があって、羊水のプールの中で、わたし達は何も考えず、ふわふわと浮かんでいます。広いプールの上を、白鳥たちが列をなして渡っていきます。青空に白い光のように飛んでゆく白鳥たち。ぱしゃぱしゃと泳ぎながら足下を見ると、たくさんの家が見えます。そのうちのひとつの家に、赤ちゃんは生まれようとしています。

 そこは、静かな静かな世界。赤ちゃん達は、羊水のプールの中に心地よく浮かんでいます。この静かな世界に、突然ざわめきが起こりました。
 白鳥たちが騒ぎ出します。見ると、黒い服を着て、髪を取り乱した女が真っ直ぐにこちらを見つめています。彼女の名前はフリート。魔界の者たちの間では、悪女フリートと呼ばれていました。彼女は生まれて4歳の時に、世の中の全てのものが本当は、全部嘘なのではないかと思っていました。目を開けているとき世界は、フリートを騙すように全てが演技をしているのです。
「だけど、目を閉じると本当はなんにもなくて、真の意味の空っぽで。私は、本当の世界にいかなければならないの……。」

 「フリート! フリート! 何をやってるんだい! 手が止まっちまってるだろう? さっさと鍋を洗わないと次の料理が作れないじゃないか! ボンヤリしてないでちゃんと手を動かしよ!」

 フリートが目を開けているとき、彼女は洗い場にいました。彼女はタワシで何百もの鍋をピカピカにします。店主が彼女を褒めると、ほんの少しフリートの心に灯りが灯ります。だけど目を閉じると店主はいなくなるのです。
 フリートは目を閉じたまま、悪魔の気配を感じます。

「この悪魔達から逃れる術はないのかしら?」
 そんなときフリートは雪の降る、世界が真っ白に染まる日のことを考えます。空から大地まで全てが雪に覆われる日なら、向こうの世界にいけるかもしれない……。
 洗い場の女達が言います。
「またフリートがわけのわからないことを言っているよ」
「向こうってのは一体どこなんだい? 亭主のいない世界があるなら連れてっとくれよ」

 だけども彼女らは目を閉じ、世界の雑音を消そうとはしないのです。
「あたし達は、ずっと鍋と一緒にいるんだよ。何も変りゃしないんだよ」
 けれども、フリートは感じていました。生まれて十六年目のことです。夜から雪が降り始めていました。
「明日の夜明け前、一番鶏が鳴く前に、世界の扉が開くだろう……。」
 上空からは静かに、雪のカーテンが降りてきています。夜明け前に、洗い場の女将さんは予感がして目を覚ましました。
「フリートかい?」
 見るとそこには、黒い服を着たフリートが、手に大きなカゴをぶら下げ、立っているのです。カゴの中にはたくさんの鍋が入っていました。女将さんは感じました。

「ああ、今日で坊やともお別れかもしれない。だけど、坊やももう35才だ……あとはなんとかなるだろう。あんた、行くんだね。しょうがないさ。お前のことが心配だ。途中までついていってやるよ」

 フリートは黙って突っ立っています。女将さんは続けました。 
「おまえがうちの店に来たのは確か、14の歳だったねえ。あの頃からおまえはここでない何処かばかり探していたよ。おまえは勘のいい子だ。ここでない何処かの存在を疑わないなんて……探してもきりがないだろうに。
 さあ、どうしようか。もうあたしもこの人生を、60年もやってるからねえ……。あたしゃまだ、死ぬ前にあの場所に戻ったことは、一度もないんだよ。あたしはスープを飲まなかった。いや、いつもいつも飲めなかったのさ。そのせいか、あたしはどの人生の記憶も消えてなくならないんだよ。
 あたしが1番最初に死んだ時は、多分フリートよりももっと若かった。良い親に育てられたもんさ。肌の色は黒かったけど、優しそうな家族がいて、犬も飼ってくれたっけねえ……それが1番最初の記憶さ。
 フリート、おまえはどうなんだい? 一口だけ飲んで吐き出しちまったのかもしれないね……、スープを飲まないで何度も生まれ変わっていると、覚えきれなくなってくるよ。本当に愛した人が何番目の人生だったかももう、わからないねえ。だけど、それだからあたしは幸せなのさ。ようは、どれでもいいのさ。どれもが本当なのさ。

 おまえは何を望んでいるんだい? 本当のことってのは、全部が本当なんだよ。
 さて、どうしようか。多分、あたしはフリートの行きたい場所を知っているんだよ。いつもいつも、向こうと繋がってる場所をあたしは見つけちまう。やっぱり匂いがするからね。何度もあのトンネルを通ってこっちに来ているけど、こっちから向こうに行くなんて、やったことがないさ。
 こっちから向こうに行けば、見えるものも変わってくるかもしれないね。ひょっとすると、神様に叱られたりするのかね? 今まで一度も会ったことのない神様ってやつに。行くなら座布団だけは忘れちゃいけないよ。フリート、洗い場の女達を起こしてきな! 今から出発するよ!」

 女将さんはベッドからすっくと立ち上がると、カーディガンを着て、フリートの前に立ちました。フリートが手に持ったカゴの、たくさんの鍋の中から立派な鉄の鍋を取り出すと、フリートの身体に当てて言いました。
「途中で悪魔が出るかもしれないから、これを鎧にするといい。」
 外は雪景色一色で、それは外灯の光を受けて淡い紫色に染まっていました。フリートは右手に鍋の入ったカゴを下げ、胸に鍋の鎧をつけて、地獄に向かって歩いて行きます。

 彼女の後ろには幾千幾百の洗い場の女たちが、座布団の下に悪魔を敷いて、鍋で叩いてフリートへの道を開けていきます。
「いいかい? 悪魔は座布団の下に敷けば消えちまうから、何も怖がることはないよ。毎日鍋ばかり洗ってきたんだ、今日は悪魔をやっつける日さ! 憎たらしいダンナのことだと思って座布団の下に敷いちまいな!」

 小さな悪魔達が有象無象の形をして、足下を駆け抜けてきますが、洗い場の女達はその小さな悪魔達を、座布団に敷いてオタマで叩いてゆきます。
「アンタ、あたしにハンドバッグ買ってくれなかったじゃないさ!」
「いつもお姑さんの言いなりになって! アタシはもうフリートと一緒に行くよ!」
 洗い場でいつも一緒にいた女達は、訳のわからない話をするフリートのことを、本当は一番に理解していたのでした。雪の中、フリートはその場所のどこが向こうの世界と繋がっているのか、よく知っていました。線路の脇のトンネルに、地獄の門があります。

 トンネルの中は暗く、悪魔達が蠢いています。だけども、トンネルの穴の形に切り取られた向こう側の出口には、この世のものとは思えない美しい世界が見えるのです。
 フリートは、地獄への一歩を踏み出しました。その顔に迷いはありません。
 後ろを振り向いてはダメ。振り向けば途端に悪魔達によって、地獄に引き込まれるでしょう。トンネルの向こう側は怖いくらいに美しく、夜の闇は魔物達でひしめき合っています。長いトンネルを抜け、あと三歩、あと、一歩というところで真っ暗な世界は、淡い紫色の光に包み込まれました。息を切らしたフリートの顔に、光が注がれました。

 白鳥たちが空を渡っていきます。透明な、大きな液体が浮いているのが見えます。その中に、ふわふわと小さな赤ちゃんたちが心地よさそうに浮かんでいます。フリートは鎧を落としました。すると、けたたましい音で空の赤ちゃんたちを起こしてしまいます。
 白く、小さな、やわらかい赤ちゃん。
 かつてフリートがそうだったように。全てを包む無垢な魂。
 ああ、あの空に浮かんでいる、やわらかな黒髪の赤ちゃん。透けるような肌。あれは、産まれてくる前のフリートです。フリートは全てがわかったような気がしました。
「ああ、そう!」
空をかけ降りていきます。あのトンネルへ!

 あの世とこの世をつなぐ一本のトンネルへ。入り口に立ち、暗闇の向こうを真っ直ぐに見つめると、今度は向こうの世界が、こちら側のように淡い紫色に包まれ、美しく見えるのです。
 暗闇の先には、トンネルの形に切り取られた、この世のものとは思えない美しい景色が見えます。フリートは、あの色がどうしてできるのかを知っています。空から降りしきる雪と夜の藍色、外灯のオレンジが混ざって、世界をあの淡い紫色に染めるのです。

 「もう一度、通ってみよう。ここはアタシが一番最初に通ってきたトンネルだわ。こっちの世界とあっちの世界を結ぶこの道は…」
 あの美しい世界に、フリートは生まれてきたのです。無垢な心のままにトンネルを抜けて、フリートはもう一度、産まれるのです。

 大雪の日、天上からすべてが雪で覆われる日は、この世とあの世がつながり、世界は淡い紫色に染められます。こんな雪の日に、あのオレンジの外灯の下で、お会いしましょう。
 あのトンネルの先に美しい、向こうの世界が見えるでしょう。 

                                                   -end-

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