見出し画像

【小説】酔うと液体になるタイプ

 カナとお酒を飲むときは、どちらかの自宅でと決めている。幅広のタオルと浴槽、ベーキングパウダー、寛永通宝かんえいつうほうのレプリカ五枚が必要になるからだ。
「それでさあ、新シーズン見始めたんだけど、ゾンビの数が前期の十倍ぐらい増えてんの。多すぎて笑っちゃった」
 カナは手に持った銀色の缶ビールをふらふらと揺らしながら、ドラマの話を陽気に喋っていた。だいぶ酔ってきているみたいで、赤味がさした肌のあちこちから、小さな泡がぶくぶくと噴きこぼれている。なんだかパスタを茹でてる鍋みたいだ。明日のお昼はカルボナーラにしようかなと考えつつ、私は手元のチューハイに口をつけた。
 飲み始めた頃と比べて、カナの体はだんだんと縮んでいた。体中から水滴があふれ落ちて、ローテーブルの周りに何枚か敷いてある大きなタオルに染み込んでいく。いつもは私の方が背が低いけど、今なら追いこせるだろうか。頭の上で手のひらを動かして目測していると、「何してんの」とカナがけらけら笑って膝を叩いた。叩くたびに膝頭から水鉄砲みたいに液体が飛び出す。
 カナは酔うと液体になるタイプだ。お酒を飲んで酔いが回るほど、人の形から水っぽい液へ変わっていく。タオルを敷くのはそのためだ。フローリングやカーペットが濡れると片づけが大変だから。
 けっこう珍しいタイプだと思う。陽気になるとか無口になるとか、酔い方は人によって色々だけど、液体になるのはカナ以外に見たことがない。それとも私が知らないだけで、割とよくいるタイプなんだろうか。
 かつん。空っぽのビールの缶がテーブルに落ちた。カナの手が元の輪郭をなくして崩れていく。
「あー、やばいかも、そろそろ」
 腕も足も、お腹も背中も、右の眉毛も左の眉毛も、形を失って流れ落ちる。経験からいって、こういう崩れ方が始まると早い。カナが丸ごと液体になるまであと一、二分くらいだろうか。
 透明に溶けていく体が部屋の灯りを弾いてきらめく。不思議なほどきれいな光景で、私は見惚れながらチューハイをがぶ飲みした。「じろじろ見んな」と照れくさそうにカナが言う。
「ごめんね」
 私は謝りながらじろじろ見た。呆れたような吐息を微かに残して、カナの頭は流れ落ちていった。
 空になった缶をテーブルに置いて私は腰を上げた。カナの形はもう見当たらず、着ていた服と敷いたタオルがびっしょり濡れている。まとめて持ち上げるとアルコールの匂いがすごくて、「飲みすぎだよ」と私は笑った。
 カナが好きなドラマの主題歌を歌いながら、服とタオルを抱えて浴室に向かう。
 浴槽の底にタオルを敷きつめて、その上に服を広げて並べる。蛇口をひねってお湯を出したら、三分の一くらいたまるまで待つ。
「湯加減どう? 熱くない?」
 声をかけても返事はなかった。液体になったカナは無口だ。つられて私も無口になって、浴室にはお湯が流れる音だけが響いた。
 スマホでカルボナーラ作りの動画を眺めるうちに、必要なだけのお湯がたまった。動画に影響されてお腹を鳴らしつつ、台所に行って冷蔵庫から箱型の容器を取り出す。中身は五枚の寛永通宝のレプリカで、どれもベーキングパウダーをたっぷりまとわせてあった。砂糖をまぶしたドーナツみたいだ。私のお腹がまた鳴った。
 リビングに寄り道しておつまみの残りをいくつか頬に詰めてから、私は浴室に戻った。
 ベーキングパウダーまみれの寛永通宝を、浴槽の四隅と中心に沈むように一枚ずつ落としていく。容器に残った粉末も水面に振りまいて、「これでよし」と私はつぶやいた。こうしておくとカナの形が戻るまでの時間が短くなる。何もしないと丸一日かかるらしい。そんなに長く液体でいると、特に冬場は寒そうだ。
 仕組みはよく分からないけど、ベーキングパウダーと古銭のレプリカを合わせると成分がちょうどいいらしい。「メーカーが同じなら宝永通宝ほうえいつうほうとか文久永宝ぶんきゅうえいほうでもいけるはず」とカナは言っていた。私は「ほう」と頷いた。
 容器のフタを閉めて、私はぐっと伸びをした。短くなっても四、五時間くらいはかかるから、このまま浴室で待つのは難しい。前に一度待ってみたことがあるけど、少しずつ水が固まって人の形になってきたあたりで、浴槽の縁にもたれかかって寝てしまった。翌日風邪を引いた。
「おやすみ」
 カナに小さく声をかけて、私は浴室の灯りを消した。リビングで酒盛りの名残が片づけを待っている。

 宅飲みをした翌日の朝ごはんは、たいていカナが作ってくれる。
 トマトと卵の炒めものを咀嚼しながら、私は向かい側に座るカナを眺めた。夜のうちに液体から戻って、元通りの見知った姿だ。今まで戻らなかったことはないけど、なんとなくほっとした気分になる。
 いちおう手を伸ばして指で頬をつついてみると、柔らかく弾力があって液体とは違った。もう片方の頬も念のためつつく。こっちも柔らかいけど、少し固形っぽい感じがある。まるで今食べているトマトみたいな感触だ。
「食べてるときに顔つつくな」
 それはその通りだ。私はあわてて「ごめん」と手を引っ込めた。
「まあ、分かるけどさ。ほんとに戻ってんの? って思うよね」
「戻ってるよ、間違いない。私の指先にかけて」
 私が人差し指をまっすぐ立てると、「そりゃ頼もしい」とカナは笑い声を上げた。
「……面倒かけてごめんね、いつも」
 ふいに笑顔を引っ込めて、カナは神妙な表情を浮かべた。
「突然どうしたの」
「酒飲むたびに世話してもらってばっかでさ。これでいいのかなって」
「これでいいのだ」
「いいの?」
「いいの。お互い様でしょ」
 私は自信を込めて頷き、グラスに入ったオレンジジュースを勢いよく飲んだ。勢いがよすぎてむせた。咳き込む私にティッシュを差し出しながら、「確かにそうかも」とカナは笑った。
 やっぱりお互い様だ、とティッシュで口元を拭きながら思う。私もカナにいつも助けられている。
 前に風邪を引いたときも、元の形に戻る手助けをあれこれとしてもらって、ずいぶんお世話になった。きっと液体より面倒だったはずだ。なにしろ私は、風邪を引くと気体になるタイプだから。

この記事が参加している募集

ほろ酔い文学

サポートありがたいです。嬉しくて破顔します。