【文芸センス】梶井基次郎『檸檬』①無垢な感性がとらえる美
今回から、梶井基次郎の『檸檬』を取りあげます。
『檸檬』はとても短い作品ですが、梶井基次郎の代表作として広く知られています。その文章は病的なほどに美しく、それでいて他に類をみない斬新な結末が読者を驚かせます。これから数回の記事で、『檸檬』がその一顆の作品に秘める、詩と物語の奇跡的な融合を、みなさまに味わっていただきたいと思います。
今回の記事では、『檸檬』の読みどころのひとつである、詩的で美しい文章をいくつか紹介します。あえて、あらすじや脈絡は細かく説明していません。もぎたての果実にかぶりつくように、梶井基次郎の生々しい感性を味わってください。
梶井基次郎『檸檬』
①無垢な感性がとらえる美
びいどろの味
びいどろはガラス、南京玉はガラスや陶器でできたビーズです。
ガラスを口にふくむと、たしかにその感触は涼やかで、透明感のある重みを舌先に感じます。私たちも幼いころ、いちどはガラスを口にふくんだことがあるので、そんなガラスの味を体は覚えています。
しかし一方で、「ガラスは無味無臭で、味がするはずはない」という知識を、我々は先入観として持っているのも事実です。そのように思ってしまうと、もう我々の舌は、ガラスの「幽かな涼しい味」を感じとることはありません。いつの間にか、無味無臭であるという先入観が、ガラスの味を楽しむ力を、私たちの舌から奪ってしまうのです。
梶井基次郎は大人になっても、ガラスの味を感じる感性を持っています。無垢なままのです。
この文章には、「幼時のあまい記憶が蘇えってくる」とありますが、読んだ我々の心にもその思い出はよみがえり、なにものにも捕らわれることのない無垢な感性を、もういちど取り戻させてくれます。
くだものの正体
さきほどの文章で、作者は無垢で純粋な感性を披露してくれましたが、ここでは突拍子もない空想力で我々を驚かせます。
果物の正体は美しい音楽。
比喩は、喩えるものと喩えられるもの、その両者の距離が近いほど、わかりやすくなります。「夕焼けのような柿の色」などは、色を色で喩えているので、それがどのようなものなのか、誰にでも想像できます。
しかし、この梶井基次郎の文章では、果物の色や形を音で喩えています。流れる音楽のイメージを、不動の物体に凝結させているのですが、このような跳躍する比喩は、一読に理解しがたいものがあります。
しかし、そのかわり我々は、あたりさわりのない表現では味わうことのできない新鮮な香味を、この短い文章から感じることができます。それがいったいどのような姿なのか、こちらが空想力を働かせるからです。
いっけんまったく異なった音楽と果物ですが、それらのあいだにあって、隠れて繋がる糸を見いだす眼力もまた、梶井基次郎が持つ豊かな詩才の一端なのでしょう。
暗がりの店
これは、ある通りを描写した文章ですが、闇のなかに浮かび上がった何気ない風景を、まるでフィルムに焼きつけたように、みごとな階調のなかに描き出しています。
前のふたつの文章に比べると、この文章に派手な趣向は凝らされていないと思うかもしれません。しかし、「驟雨のように浴びせかける」と「螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んでくる」という、電橙の灯りを描写したふたつの文章には、文章表現を探るうえで、ぜひとも注目したい技巧が盛り込まれています。
このふたつの文章に共通しているのは、肉体へ訴えかける表現であることです。しかもそれは、光を描写していながら、視覚ではない別の五感に訴えかけるものなのです。
「驟雨」からは、雨が体に降り注いだときの皮膚感覚を想起しますし、「螺旋棒」からは、文章にあるとおり、鋭いものに刺される痛みを感じます。
いくら強かろうと、光が肉体に直接触れることはありません。しかし、梶井基次郎はこれらの文章で、光が肌へ与える影響を、雨や螺旋棒をつうじて連想されているのです。
これによって、光がまるで物体のような質感を帯び、ほんとうにその光を浴びているような臨場感が生まれています。
おわりに
梶井基次郎の文章は、小説の中から抜き取って独立して読んでも美しく、そこに彼の文才が溢れています。
その背後には、ものごとに対する鋭敏な感性があるわけですが、ここまで感性を研ぎ澄ませていると、精神への多大な負担を伴うものです。案の定、梶井基次郎は神経症、いわゆるノイローゼを患っています。
次回は、そんな梶井基次郎の陰鬱な一面を紹介します。
おしらせ
言葉の持つ力を掘り起こし、文章表現に活かす『霊石典』を編集しています。言葉について深く学びたい方は、ぜひ、あわせてお読みください。
この記事の他にも、過去にたくさんの文芸学習の記事を書いています。こちらからお読みください。
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