エンタメと芸術 (「エヴァンゲリオン」と「月と六ペンス」)

 コロナウイルスの影響で「新劇場版 エヴァンゲリオン 序」がネットで公開されていたので見ていました。「破」まで見る予定です。その後は……(いや、多分、エヴァは破で終わったんだ、そうなんだ…)
 
 エヴァの劇場版は全部見ていて、なんといってもオタク世代なので、普通に通ってきています。だから今回見るのは二度目です。破も二回目です。
 
 私は昔からアスカ推しなので、好きなのは破です。アスカの何がいいのかと言うと……ああ、オタクトークはこれくらいにしときます。
 
 それで、改めて見ると、本当に自分はエヴァが好きだったのかな、と思います。滅茶苦茶好きだったわけではない事はたしかですが、結構気に入っていたはずです。それが今見ると(ふーん)という感じです。破は劇場で一人で見て、結構感銘を受けた(と言っても萌え的感銘ですが)記憶があるんですが、どうして自分はこれをいいと感じていたんだろうと不思議に思いました。
 
 エヴァを見返した結論から言うと「エンタメと芸術は似て非なるものだ」という事です。やっぱりエヴァはエンタメだなと思いました。それから、多分、怒る人がいっぱいいると思いますが、例外を除くとやっぱり漫画・アニメ・ゲームなどには限界があると思います。この場合、文学とか小説が特権的であるのではなく、今の小説はエンタメと変わらないので、同じ括りに入れて構わないですが、そうしたものには明確に時代的限界があると感じました。
 
 こう言うと切れる人がいるのですが、逆に言うと、その制約があるからこそ多数の人が礼賛し、楽しめるものになっているという事です。ジブリもそうです。ガンダムもそうでしょう。これはどういう関係になっているかと言うと、人は普通、ある時代的制約を負う事で、自分達の通常性というか、普通性に安堵します。そこは落ち着きどころなのです。
 
 言葉を変えてわかりやすく言います。私も詳しく調べたわけではないですが、ヨーロッパの中世は圧倒的にキリスト教が強い時代でした。そこから宗教という強力な制約に対抗する形でヒューマニズムが出てきてヨーロッパの近代が現れてきました。その葛藤というものが近代の大きな原動力となりました。
 
 中世、キリスト教が強かった時代、どうも神学的な、異様に細かいロジックとか沢山議論されていたようです。そういうものが沢山出回っていたのでしょう。ですが、それらは私達にはほとんど残されていない。ある時代的制約に服従した形での細かいクオリティの競い合いは、その時代そのものが批判されるようになると一気に流れ去ってしまう。デカルトやスピノザは中世から近代にかけての人ですが、どちらも異端者的な、断罪されかねない雰囲気を持っていた。正統なキリスト教から外れていた。ですが、外れていたからこそ次の時代のスタンダードになったのです。
 
 これを今の時代に置き換えると、FF7にしろエヴァにしろジブリにしろ、それらはある時代的制約と合致したものであるという事です。ではそれは具体的にはどういう点に感じるのでしょうか。
 
 私が思うのは、村上春樹なんかも含めて、これらの全ては「趣味的」であるという事です。ここから、エンタメしか知らない人が「芸術も趣味の一つに過ぎない。芸術の使命は自分達を楽しませる事」という結論を引き出しますが、それは間違っています。エンタメしか知らないにも関わらずその結論を他の領域に応用する事が間違っている、と私は思います。
 
 エンタメが趣味的だというのはどういう事でしょうか。それは、富裕な先進国の人間が、二十世紀後半あたりから生活に余裕が出てきて、趣味的に楽しめるものが大きく拡大し、広まったという事です。これは物質社会、大衆社会の流れに合致するもので、そこで人々が生活の合間で楽しめるものが大きく力を持つようになった。
 
 例えば、物語の作り方なんかでも、視聴者は「安心して」楽しめるようになっている。どんでん返しやびっくりするような物語展開があるとしても、あくまでも視聴者の前提とする価値観は崩さないようにできている。視聴者もその価値観を疑いはしないし、疑ったり揺さぶったりするような作品は嫌う、という事です。
 
 また、この作品と視聴者の前提となっている価値観というのは、戦後の一時期から現在までの時代制約的なものですが、その内部ではこれを永遠と考えようとし、絶対的なものにしようとする。そういう言論の人がもてはやされたりもしました。しかし、考えてみれば各時代の人間は各々、その時々の現在性を絶対化して生きてきたに違いない。それにも関わらず時は流れ、時代は変わる。私達は時代が変わるという事をそれほど簡単に捉えられないはずです。時代が変われば、今、私達が基準としている価値観そのものが変わってしまうのですから。
 
 では現在の価値観とはどういうものでしょうか。端的に言えば「生きる事は素晴らしい」というようなものでしょう。気をつけなければならないのは、この価値観は、本当に生を褒め称えているわけではないという事です。ここに私は詐術があると見ています。ここにおける「生」の礼賛は人間の有様を率直に見て褒め称えたものではなく、消費社会・大衆社会の中で、例えば仕事の後に仲間と一杯やるのは素敵というような、時代と物質的根底に支えられた「生」だという事です。ですからこの生の有様からは、異端者や市民の一人と見られない人間は疎外されます。
 
 こうした価値観から、色々な艱難辛苦があっても、最後に平和で素晴らしい日常に戻ってくるという物語のパターンが生まれます。村上春樹の小説なんかも、村上春樹は普遍的な物語のパターンを自分は使っていると言うでしょうが、その帰る先は、物質社会・大衆社会であり、価値観、時代が変わってしまえば成り立たなくなるような場所にいる。ある時代の中に生きている人間はその内部でその価値観を絶対化するとしても、時間が経てば相対化され、もてはやされていたものも消えてしまう。するとどういう作品が残るかは、また別の視点が介入していかないと判断できないものになります。
 
 ※
 
 エヴァの事について書こうと思ったんですが、思ったより長くなったので端折ります。まあ、もうみんな知っているのでいいでしょう。
 
 今さっき、エンタメは時代の価値観を崩さないようにできている、だから趣味的だ、という事を言いました。これは多くの作品がリアリティを欠いている事、またアニメ・漫画のように、キャラクターが単純化がされている事と関連しています。
 
 趣味的だという事は、自分達の価値観を疑わずそれは置いておいて、その上で趣味的にもてあそぶというか、楽しむという事です。本当に優れた文学作品は、私の経験では人生そのものを揺さぶってきます。価値観そのものを変えるというか、自分の生き方とか、自分の存在そのものを問われます。その為にはリアリティ・リアリズムというのは基本的に必要な路線であると考えます。
 
 この場合のリアリズム・リアリティの定義は面倒なので、漠然とイメージして欲しいのですが…なぜ、リアリズムが重要かと言えば人は現実に生きているからです。現実に生きている私達が一体何者か、どこに行くのか、何を成すべきなのか、それが問われるのが本当の文学・芸術であるはずです。
 
 それに対してエンタメ作品では、そこまで迫真的に問うものは回避されます。かえって「気持ち悪い」とか言われます。なぜ気持ち悪いかと言うと、そう言う人達は自分達の底にある、現代社会と一致した価値観を崩されたくないからです。揺さぶられたくないからです。
 
 ですが、今こんな風にして「エンタメ作品は~」と論じると、低級な作品を喜んでいる俺らが悪いみたいじゃないか、という感情を呼び起こす危険もあるので、世間的には「ジブリはエンタメとして面白いけど芸術性もあって素晴らしい」と言っておけばとりあえず○となります。ジブリとかエヴァにも色々な考察がつきましたが、この考察も趣味的なものです。本格的な批評とは別物です。
 
 エヴァを見て改めて思ったのは、碇シンジ君の青春故の葛藤というのは、多分庵野秀明自身の経験とも絡んで(声優のいい演技もあって)結構面白いのですが、しかしそれが現実との葛藤と結びつくとそうでもない。このあたりは微妙な所ですが、ところどころ現実の影が差す部分もあるのですが、作者はどうしても空想的な所へ逃避してしまいます。これは当時には作品の美点というか、尖った部分として称賛されたりもしましたが、今見ると、作品の難点になっていると感じます。俯瞰で見れば、もっとエンタメ作品としての完成度を意識して作った方が見返しやすい作品になったと思います。
 
 まあ作品の出来に関してはいいのですが、以前に書いたように、庵野秀明が影響を受けた岡本喜八と比べるともっとわかりやすいと思います。以前詳しく書いたので簡潔に書きますが、岡本喜八にとっては太平洋戦争という現実そのものが重い経験として底にあり、それをクリエイターとしてどう消化し、表現するかが問題になったのですが、その後の平和世代の庵野秀明だと、同じような事をやろうとしても趣味的になってしまいます。
 
 この趣味的な気分が我々世代の感覚と一致して大ヒットしたのでしょうが、その為に空想的な描写が増え、また作者自身も作品をコントロールできておらず、リアリズムを通じて描くべき葛藤、つまり作者が闘うべき相手がはっきり見えず、そのために不明瞭な作品になったと思います。なんだかよくわからないのは使徒の正体だけではなくて、庵野秀明自身が自分が何を表現すべきなのか、はっきり自覚できなかった事が問題だったように思います。
 
 ※
 
 タイトルにサマセット・モームの「月と六ペンス」を入れていますが、最近、この小説を読んで感銘を受けました。「月と六ペンス」がエンタメ作品とどう違うかも私なりの意見を書いておこうと思います。
 
 「月と六ペンス」は画家の話で、ゴーギャンがモデルになっています。主人公のストリックランドは四十才まで普通の家庭人、仕事人として世間的に何の問題もない生き方をしていたのですが、四十になって急に画家を目指します。彼は妻子を捨てて画業に専念します。画家を目指す、と言うと今の人は誤解するでしょうが、村上隆になりたいなんて事とは違うのです。

 それは「絵に生きる」という事です。語り手の「私」はストリックランドにどうして画家を目指すのか聞くのですがストリックランドは「とにかく描かねばならん」と言います。それが答えの全てなのです。
 
 ストリックランドは人としてはクズで、自分を世話してくれた友人の妻を寝取って、その後その女はストリックランドに捨てられ、自殺してしまいますが、その事を彼はなんとも思っていない。彼にとってそれはどうでもいい事で、彼自身も最後には無残な死に方をします。それは彼の犯した罪が報いとして戻ってきたという描き方ではなく、「とにかくそういう生き方」として描いてあります。ストリックランドは一種の野蛮人なのです。

 それに対して作品の最後では、対比的に、偽善的なイギリスのブルジョア(ストリックランドの元嫁と子供、芸術評論家)が出てくるのですが、要は作者が言いたいのはどっちが本当の生き方なのか、という事です。
 
 この作品をエヴァはじめとするエンタメ作品と比べてみると、作品の底にはリアリズムがあるとわかります。ゴーギャンをモデルとしている事もそうですが、こうした生き方は現実に可能だし、実際にそう生きた人間はいるだろう、と想像させます。
 
 私は前から疑問だったのですが、「想像力は無限」という言葉があります。なんでも想像力でどうにかなる、というような意見です。しかしそういう、現代の人が言う「想像力」とはエンタメ作品を作る上での、言わば自分の人生に向き合わない限りに現れてくる趣味的な「想像力」だったのではないかと思います。
 
 これは逆に言えば、我々、それから我々よりも一つ二つ上くらいまでの世代は、自分達の人生にも価値観にも疑問を感じる事がなく生きられるという幸福な生を送っていたとも言い変えられます。オタク世代は、日本が斜陽になってきたのを感じつつあったけれども、それから逃避して、フィクションの中で自己実現を達成しようとしたものと見れるかと思います。また、今の日本礼賛も、日本が落ちてきたと同時に発生してきたというのは興味深い。調子が良ければ強いて自己礼賛する必要はない。落ちてきたから、自己礼賛して持ち上げないとやりようがないのだと思います。
 
 ※
 
 「月と六ペンス」に戻るならば、それはリアリズム的な天才の話です。自己実現の話とも見えますが、主人公が認められるのは死後で、本人は貧苦の中、絵を描ききって死んでしまいます。また、特徴的なのは最後に自分が書いた傑作は遺言で燃やしてしまうように頼んでいて、絵は実際、燃やされてしまう。この終わり方はエンタメ作品では難しいと思います。
 
 エンタメ的な作品では「絆」が強調されてきました。これは日本社会の特質とも絡みますが、それと、消費社会の漠然たる市民性・大衆性が一致した部分が落とし所だったように思います。なんだかんだで孤独になって辛いとしてもみんなで一緒に頑張れば大丈夫…というもので、JPOPの恋愛曲で頻繁に出てくる「愛している」もトータルで言えばそういう、ある社会の上に成り立っていた共同幻想と合致しようとする試みだったと思います。恋愛がテーマのように見えて、実際には集合的な理念との合一が恋愛という象徴的な形で歌われていたと思います。
 
 ここでは、現実に生きている人間が死の問題、自分の人生の問題と向き合わず、それを「絆」で薄めるのが救済であるという宗教があるのではないか。その始まりの位置に近い所に村上春樹がいます。
 
 「月と六ペンス」のストリックランドは、現実にそう生きるのは難しいですが、そう言う人間は稀にいるだろう、また天才とはこんなものだろうと感じさせる事にリアリズムがあります。そこに空想性は必要ありません。なぜなら、実際の現実、実際の人生に向かい合っているからです。通常、人が見たくないものと向かい合っているので、それと向き合わない場合に必要な趣味的想像力はいらないのです。必要なのは洞察です。
 
 エヴァはじめとするエンタメ作品は、自分達の富裕な、楽になった、楽しい生活の前提があった上で趣味的な楽しさや心地よさを満足させる物語です。萌えもその一つです。また、主人公達がギリギリの危機に陥っても、危機一髪で問題を解決するというのももはやおなじみです。このおなじみも、もうお約束になった感があるので、読者にあっと言わせる為にあえてお約束を裏切った展開を見せたりもしますが、最後の落とし所はやっぱり同じなのです。人が心地よいというものは汚さないように出来ています。

 では、逆に言えば、芸術とはなんなのでしょうか。それはここまで書いた事でもある程度の答えになっていると思います。芸術、文学というものは不愉快なものです。少なくとも、不愉快なものを含むという事です。
 
 哲学者のニーチェは、真実は苦いものだと繰り返し言っていましたが、芸術にも苦いものが含まれています。それは不愉快に感じさせる、見たくないものも含まれています。なぜ含まれているかと言えばそれが人生だからです。現実だからです。ですが、この不愉快なものを含んで、それを越えていこうとする所に芸術の志向性があります。
 
 芸術や文学は率直に人生に向かい合います。そこには人生の不愉快さ、人間の儚さ、虚しさ、死という宿命が含まれています。しかしそれらと向かい合い、それを描く事によってそういうものを越えていこうとするのが芸術です。これに対して「芸術も自分達を楽しませてくれればそれでいい」という意見は、現代という狭い井戸の底を全てだと意図的に誤認しようとするものでしょう。
 
 今、現在も、歴史は動いています。「萌え」に閉じこもりたい人も、死神に襟を掴まれて死の方に引きずられているのです。どれほど現実をフィクション化し、どれほど豊かな物質に囲まれていようと、人は現実に生きておりそこには死がある。だから芸術の普遍性は個人が自分自身の宿命と向かい合った時によりはっきりと見えてくるもののはずです。
 
 逆に言えば、変に聞こえるかもしれませんが、多くの人間は自分自身と向き合わないという事です。人生も現実も直視しないというのが普通であるという事です。ヒットラーは徹底した大衆侮蔑の上に大衆支配を行いましたが、ドイツの孤立した大衆にとっては自分達にとって都合の良い神話が提供されるのは、カラカラになった喉先にペットボトル入りの水が置かれるようなものだったでしょう。
 
 エンタメ作品は確かに心地よいものですが、それは現在の、自分達の現実を綺麗なもののように歌い上げ、フィクション化していく作用を伴っていると思います。芸術、アートと呼ばれているものもそういうものに頭を下げる事によってかろうじて社会の一隅に場所を持っている状態です。矛盾と思われるかもしれませんが、私は優れた文学とか映画のようなものは、我々が現実に覆いをかけた嘘を暴露するものとして機能すると思います。我々の社会の如きは、現実の方がフィクションであるというような状態になっています。そのフィクションを破るもう一つの真実としてのフィクションが芸術ではないかと思います。
 
 「月と六ペンス」は心地よいだけの物語ではありませんが、そこで、一人の人間の生と死を描ききっていました。ストリックランドが芸術に命を費やすのは、生と死を越えるものを見たいがためだったでしょう。その前提としては、人間がどういう存在であるか、人間が何であるかについての深い思索が必要とされます。人間が深い認識を持つのは難しいし、自分及び世界に対して都合の良いフィクションを作り、それを支持する事によって真実を隠すのはずっとやられてきました。しかし真実は不変であるという単純な事柄から、生きながらえるのはエンタメではなく芸術の方であるとは言えましょう。
 
 そういう意味において、残念ながら、我々世代にとって神であったFFやエヴァ、そうした作品群は歴史に残らないと言えます。これらは我々の社会の変化に伴って消えていくでしょう。そしてその後には何が残るかは、流れ去っても残るものが何であるかは、まだはっきりとわかりません。ただそれは、自分達が今現実に生きている我々の姿を忘れたものではないはずです。今、古典として残っているものはそういう作品ではないかと思います。古典が常に古くて新しいというのはそういう事だと思います。
 
 現代の人々は自分達の価値観を絶対視し、最先端を生きている自分達が一番素晴らしいと言いますが、我々がなにかを経験しているのではなく、もっと大きなものが我々を一つの情景として経験しているにすぎないのかもしれません。我々もまた過ぎ去っていきます。そして全ては過ぎ去っていくと心中に深く刻み込んだものだけが、過ぎ去らずに残っていくような気がしています。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?