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パスカル「パンセ」の一文から考える芸術の本質

 パスカル「パンセ」はおそらくは著者の意向と異なって、様々な方向に、彼が見つけた真実の光を放っている。
 
 パンセ482の文章は、私には芸術の本質を見事に語った短文のように見える。しかしパスカルは実際はここでは芸術について言及しているわけではまったくない。
 
 ただ、私がそう読み取った、というだけの事だが、パスカルの異常な知性の洞察は様々な方向に光を放っている為に、私がそのうちの一つの光を感受し、延長して考える事も許されるのではないか、と私は思う。
 
 「神は天地をつくられたが、天地は自分の存在の幸福を感受しないので、神はそれを意識する存在、すなわち、考える肢体が一つの全体を構成するような存在をつくろうとお望みになった。」
 (パスカル「パンセ」中公文庫 新版 p341)
 
 考える肢体とは、人間の事だ。人間とは意識し、考え、そして表現する存在である。
 
 芸術とは何か、と言われれば人の議論は混乱する。ここではパスカルの言葉を元に、単純に考えてみたい。
 
 今日、私は雨上がりの街を歩いた。夜の雨上がりの街は、信号灯や、ビルからの明かりなどが錯綜して、濡れた道路が淡く光っていた。私はそんな街の様子を「美しい」と思った。
 
 しかしその街を「美しい」と思った人間は、私と一緒に歩いていた無数の人々の中で、おそらく私ぐらいのものだったろう。あるいは私の他に一人か二人いたかもしれない。もちろん、ここでは数は大切な問題ではない。
 
 雨上がりの、光を乱反射する街は一つの世界である。これを自らの存在の美しさを知らない天地と見てもいいだろう。この美を捉えるのが芸術家である。もし私がポケットからカメラを取り出し、この美を捉えようとすれば、すなわち、私は芸術家の態度に入っていっただろう。
 
 最近では、川崎の工業地帯なども、美しい風景として認められているようだ。ツアーもあるらしい。しかし工業地帯の美が発見されるにはそれなりの時間が必要とされただろう。言うまでもなく、工業地帯とはあくまでも実用的な目的の為に作られたものであり、機能的なものだ。美しい建築物として作られたわけではない。
 
 しかしそれに美があると最初に発見し、その世界を切り取り、写真や絵画で表現する時、彼は芸術家になる。芸術家は、世界を異邦人の眼で眺める。彼は人と同じ風景を見ながら、人とは「違う角度」で世界を見る。
 
 引用したパスカルの言葉というのは、そういう風に受け取っても良いと思う。パスカルは何よりも考える事に人間の尊厳を置いていた。
 
 世界は、考えはしない。世界は存在するだけだ。雲や花や、空の色の移り変わりがいかに美しかったとしても、雲は自らの美しさを知らない。花も空も自らを知らない。人間は、それを感受し、そこに「美」という一つの意味を見出す。それは人間にしかできない事である。しかし、美しい対象がなければ不可能な技でもある。
 
 ロンドンは霧が深い事で有名だった。霧はただロンドンの人々にとっては厄介なものに過ぎなかった。だが、画家のターナーがロンドンの霧を絵に描いて、はじめてそれが美しいものである事が人に知られた。ターナーは世界を変えはしなかったが、世界を見る見方を変えた。
 
 同じように、映画「ブレードランナー」で、歌舞伎町をモデルとした、ごみごみとした都市の風景が現れてくる。東京の都市計画はめちゃくちゃだったから、整然とした街にならなかった。それを残念と見る事もできる。しかし「ブレードランナー」という映画の中の風景として現れて以来、ごみごみとした街にも、独自の美しさがある事がはじめて人に認識された。
 
 このように、人が当たり前だと思っている世界を、当たり前ではない視点によって切り取るのが芸術家の仕事である。パスカルの短い言葉は、そういう本質を言い当てているものに見える。世界はただ存在するだけでなく、それを意識し、考え、切り取り、表現する新たな存在を待っている。それが可能なのが人間であり、またそれを実行するのが芸術家なのだ。
 
 芸術家はいつも違う惑星から来た人のように世界を眺めなければならない。彼が自らの視点を既に存在しているものの在り方に合わせてしまえば、もう彼は芸術家としての能力を失ってしまう。
 
 彼は人々と同じでありながら、人々を俯瞰視していなければならない。彼は孤独でありながら人々と和していなければならない。世界の新たな在り方を、世界それ自体に提示しなければならない。それによって、彼は新たな光を世界に生じさせるプリズムの如き存在として、この世界に「在る」事を世界に認証されるのだ。

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