サブカル社会

 糸井重里、高橋源一郎、村上春樹といった人達は今や「大御所」になってしまっている。彼らの本質はカルチャーのポップ化、カルチャーとサブカルチャーの橋渡し役といった所だった。
 
 彼らは年齢的には「大御所」だが、昔の大御所のような、威厳のある態度を見せるわけではない。そうではなく、Tシャツにジーパンといったカジュアルな感じで現れる。
 
 彼らはカルチャーをサブカルチャーに接続する役割を担っていた。彼らは知識とか教養を持ちながらも、それを「ポップ」に崩していく仕事をしていた。しかし、これは今やあまりにもありふれている。
 
 おそらく、彼らの世代の頃には、まだカルチャーが力を持ち、真面目そうで、威厳のあるものが存在感を持っていたのだろう。彼らのポップさへの傾斜は、それらへの反抗という意味を持っていたのだろう。
 
 ところが、数十年経つと、もう反抗する親はおらず、カルチャーと呼ばれるものはどこにも存在しない。サブカルチャーしか存在しないし、全ては大衆の情緒に合わせた低レベルなものになってしまった。そうなると、糸井、高橋、村上といった人達は自動的に階層があがり、彼らは今や「高級」な存在になる。
 
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 学生運動は1970年くらいには大体終結している。三島由紀夫が死んだのが1970年で、高橋和巳が死んだのが1971年だ。大体、これくらいの時期には社会の中における「真面目なもの」は終わったと言っていいだろう。文学は死に、映画も死に、あとはサブカルチャーだけという状況に順次移っていた。
 
 三島由紀夫は学生運動に共感を抱いていたらしい。三島の思想は「右」で、学生運動は「左」だから、どうして共感するのか、今の右翼ー左翼の対立からするとわからないだろう。おそらく、その頃には、本気の社会改革という考えが人々の中に存しており、そうした真剣さを三島は買ったのだろうと思う。
 
 現代社会を見てみれば、どうだろうか。社会を本気で変えるなんて言うと笑われるばかりだ。それよりも、既存の社会制度に速やかに順応して、「勝ち組」になる事が目標とされている。
 
 社会の秩序そのものは、アメリカという強国の庇護の元に経済活動に邁進するという事で固定された。今やそれは「当たり前」でしかない。
 
 社会の秩序は動かせず、全ては「当たり前」であるならば、真剣なものは単なる能力の優劣としてしか現れ得ない。社会そのものの価値観を相対化する視点というのは、個人の中に現れないか、現れたとしても馬鹿にされて終わりだ。だから、後に残るのは個人の趣味でしかない。
 
 仕事と趣味。これ以外のものはこの社会では許されていない。「仕事」は既存の秩序に順応する形で成果をあげる事であり、「趣味」は、その秩序が許す限りで自分の欲望を満たす事だ。自己の全人格をあげて成す行為はこの社会には全く存在しない。
 全ては決められている。サブカルチャーとは、社会の総体を自らの視野におさめるのを『諦める』事によって可能になった文化だ。社会が与えてくれる剰余の中で、戯れとして遊んで見る事。それが今や全てになった。
 
 テレビをつければ、芸能人がプライペートについて二時間も三時間も喋っている。しかし、彼らは社会の「頂点」であり、成功者だ。社会の頂点にいるものが何故、延々と自分のくだらない話をするのかと言うと、話せる事はそれしかないからだ。この世界の可能性はそういう戯れーーサブカルチャーの中にしかないからだ。
 
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 最近、ジャニオタ(ジャニーズのファン)のコメントを見ていたが、彼らの一部は過激な考え方を持っていて、その中には、ジャニーズの「J」は「ジャパン」「自民党」「ジャニーズ」を意味していると主張している人もいた。こうした人達によると、ジャニーズを叩く人間は「反日」らしい。
 
 たかだか、男性アイドルのグループ、またその芸能事務所がどうしてこんな風に大きな話になるのか、苦笑が漏れるばかりだが、考えてみれば、この社会にはそれ以外の出口はない。ジャニオタというのは、そういう意味で社会の在り方に適合した人達ではある。
 
 ジャニーズが生きがいである人生というのは果たしていいものか?と彼らに問うたところで、それは全く意味のない事に違いない。というのは、そういう小さなものが生きがいである以外の人生というのが彼らには全く想像できないからだ。
 
 ジャニーズのJが、自民党のJを兼ねているという主張は傑作だ、と私は思った。そもそも、たかだか一つの政党でしかない自民党が何故こんなに神格化されるのか、不思議だが、拠り所のない人、自らの思想も哲学も持たない人々は、強いものに積極的に同化して、自分の実存的不安を払拭するしかない。そこで、せいぜい最大の与党である自民党というものを何か大きなものだと神格化し、それを支持している自分にも意味があるように思いたがる。
 
 現代の思想のようなものは実際には思想というほどのものでもない。単に「勝ち馬に乗りたい」というそれぞれの欲望の発露に過ぎない。
 
 勝ち馬に乗りたい人達は、既存の秩序に抵抗しようとはしない。既存の秩序というのは、「現に勝利したもの」であるので、とにかく勝利したものに同化しようとする。そこで「自民党」のようなものが現れてくるし、大勢のファンがついている「ジャニーズ」のようなものが出てくる。
 
 冷静に見れば自民党は一つの政党でしかなく、ジャニーズ事務所は芸能事務所でしかない。どうしてこんなものを神格化するかと言えば、それ以外に頼れるものがないからだ。少なくとも、彼らはそう感じているからだ。
 
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 今まで述べてきた事を要約すると、この社会においては、一方において「勝ち馬に乗りたい」という強固な欲望が存在する。既存の秩序は絶対のものだと感じられており、それと戦うなんて滅相もない話なので、積極的にそういうものと融合して、ちっぽけな自分を救おうとする。
 
 もちろん、この「既存の秩序」というのは歴史を見ればわかるように、絶対的なものではない。それでも、既存の秩序を貫くどのような価値観も持てない現代人は、手のひらをくるくるとして、「勝ち馬に乗っかり続ける」しか、自分自身の不安をかき消す方法を持たない。
 
 いわゆる維新志士といった人達は、現代人とは違う精神的態度を持っていた。吉田松陰は今から見るとテロリストでしかないが、吉田松陰のような人間は、社会の秩序に逆らおうが、自らの信念に従っているという自信があった。
 
 西郷隆盛は明治政府の重役についたが、最後には反逆者として人生を終えている。これは現代から見れば意味不明だ。例えば今、政府で重役を努めた人間が地元に帰って、仲間と連帯して、政府に対して戦争を始めた、と聞けば、現代人は(何を馬鹿な事をやっている)と思うだろう。西郷隆盛のした事はいわばそんな事であって、こうした人達は現代人の利害を越えた理想を持っていた。
 
 自らの中に垂直な価値観を持たない現代人は、揺れ動く現実に身をまかせるしかない。積極的に勝ち馬に同化して、自分の利害だけ考えて生きるしかない。
 
 また、社会秩序そのものはもはや逆らうものではないから、後はその剰余部分で戯れとしての「遊び」が生じる事になる。これがサブカルチャーであり、「趣味」だ。
 
 ネトウヨとジャニオタの結びつきは私には興味深いものだ。強いもの、既存のものの神格化と、その秩序と手を結びながら、真剣なものがわからない「趣味」の人々を男性アイドルという偶像で惹きつける事、この二つは社会の深い部分で結託していると言える。
 
 既存の秩序そのものが絶対であるならば、それとうまく手を結びつつ、その剰余としての「趣味」としての人々に焦点をあわせ、彼らに商品やサービスを売却する。これはこの社会の一つの成功の方程式となった。
 
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 社会の頂点である人物が公的な事についてはどうでもよく、私的なおしゃべりばかりべらべらとしている事。そしてそんな人物に多くの人間が「共感」したり「いい人」だと思う事。そうしたものが流行るのは、私的なものしか社会の可能性としては残されていないからだ。
 
 例えば、学歴というのはそもそも意味があるのか?と問うよりも、『そんなうるさい事言うよりも、実際に学歴は存在している。だから、それを利用する方が得だ』と考えて一生懸命勉強する方が「利口」である。
 
 現代のそれなりに賢い人もその多くは、最終的に、「自分自身をレベルアップ」「成長する」「時代を生き抜く」といった形で、社会で成功する方向へと考えを持っていく。となると、それを可能にするのは、今現に存在している社会秩序なので、結局はそれを肯定する方向に考えは流れていく。
 
 「成功したい」のあれば、ユーチューバーを否定するよりも、ユーチューバーになった方がいい。どれだけ愚かな事だとしても、集団的狂乱に過ぎないとしても、「自分」が成功したいのであれば、現に存在する現象をうまく利用するしかない。こうして現実の社会制度は野心ある個人によって念入りに上書きされていく。
 
 「自己肯定」の思想はだから、現実の社会への適合へと流れていく。自己肯定というのが、自らの中の垂直な理想の肯定という形になり、利害を越えた行為というものを思い描く事ができないのなら、彼らは決して現に存する社会秩序を超える事はない。彼らは現に存在する社会秩序と一致していく。
 
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 このようにして「自己」=「社会秩序」となる。
 
 あるいはジャニーズタレントのような人であれば「自己」=「社会秩序」=「趣味」となるだろう。過激なジャニオタによれば、ジャニーズの衰退はそのまま日本経済の衰退を意味するそうだ。つまり、そうした、個人の趣味的感情が集団化して、社会の公式となっている。それがそういう人達のいいたい事だろう。
 
 こうした社会が今の社会であると思う。その分岐点はおそらく1970年前後にあって、そのあたりで文学は死に、芸術としての映画は衰退し、サブカルチャーが興隆してきた。しかしこうした世界は絶対でもなければ、永遠でもない。趣味の氾濫を許したのが、日本の経済的興隆だとすれば、それが沈没すれば、趣味的なものも衰退していかざるを得ない。
 
 今は、過去の幻想に必死にしがみついている時だ。「趣味」と「仕事」以外のなにものもない世界においても、それを可能とした社会機構それ自体が崩壊すれば、その内部のものもまた崩壊するだろう。「今、この」社会の中でどううまくやっていくかと散々議論されている処世術というのも、そういう未来がやってきてしまうと、もはや全く意味のないガラクタになってしまうだろう。

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