ハムレットとラスコーリニコフについて

 小林秀雄に「ハムレットとラスコーリニコフ」という短い文章があるが、それは自分にとって非常に大切な文章となっている。あれを読んだ時、まさにそこに自分の求めているものが書かれているような気がした。
 
 私がずっと考えているのは、自己意識がどこでその破断点を示すかという事だ。それは、いわば私自身の生涯に対する「予感」であるのだろう。もっともそんな大げさな事は言わなくても良いのかもしれない。ただ、肉に刺さった棘たる自己意識としての存在を行使している人間ーーつまり私、私以外の誰でも構わないが、その人はどこから来てどこへ行くのか。それが気にかかっているだけだ。
 
 小林は件の文章で、作者がドラマを生み出す手腕に着目している。作者とはシェイクスピアとドストエフスキーの二人だ。最初に、エリオットの論が引かれている。
 
 エリオットは、どうやら、ハムレットはドラマとしては失敗していると言っているらしい。何故ハムレットは失敗か。ハムレットがドラマの人物に不適合だというのである。外面と内面の矛盾を抱えたハムレットという人物は整然たる劇にふさわしくない。エリオットについて私は全然知らないが、多分、彼なりにクラシックに帰ろうとする道すがらにおいて、ハムレットの内面と外面の矛盾を曝け出して歩く様は鬱陶しく感じたに違いない。小林秀雄は、エリオットを持ち出しているが、彼に同意しているわけではない。おそらく小林秀雄は逆の事を考えている。エリオットが欠点と見た所に、興味深いもの、長所を見ている。
 
 ではその長所とは何か。ハムレットは最初の近代的人物と言われる。彼は内省的な男である。詩人である。夢想的な男である。しかし、彼はそれだけではない。行為を宿命付けられた男である。ここにドストエフスキーが創造した人物、ラスコーリニコフとの共通点がある。
 
 奇しくも、オスカー・ワイルドも全く同じ事を言っている。…というか、私が頭の中でワイルドと小林秀雄を結びつけたのだが。まあそれはいいとして、ワイルドはこんな風に書いている。
 
 「ハムレットは夢を追う男である。しかるに実行を要請される。彼は詩人的素質をもっている。それなのに世にありふれた原因結果のもつれ、つまり彼があれほどよくわきまえていた観念的本質における人生ではなくして、全く勝手のわからない、実際に現実化された人生と取り組むことを求められる。」
 
 (「獄中記」より)
 
 この箇所を読んで、ワイルドという人は実によく文学をわかっていた人だとつくづく感服した。ハムレットの悲劇はそこにある。彼が詩人であり、内面に生きたい男であるにも関わらず、現実に生きねばならぬ、しかも行為者でなければならぬという所に近代的な悲劇がある。この内面と外面の矛盾の統一は、私は、ドストエフスキーとシェイクスピアに最も高度な、美しい形で見られるように思う。
 
 ※
 
 では、その内面と外面の矛盾、その統一は作品内でどのように図られているだろうか。
 
 小林秀雄が念入りに強調しているように、この事は登場人物、即ちラスコーリニコフとかハムレットとかいう個人の内面で完結しているわけではない。完結できない所にドラマが生まれる。それを客観的な視点で書くのが作家である。ドストエフスキーは「罪と罰」を一人称で書こうとしたが失敗した。彼は三人称で書いて、やっと「罪と罰」が生まれた。そこで、ラスコーリニコフの内面はドラマとしてようやく扱えるものになった。
 
 個人の内面というのは無限に思える。無限に思えない、自分は自分を知っている、私は分を知っているという人は、多分自分を知らないのだ。自分を知るとは、全然、自分というものがよくわからないという事を知るようなものだが、それは視野の内側にいて視野の外側を知ろうとする努力に近い。視野の内側からは視野の限界は見えない。見えないが、それは存在する。ではそれを誰が見るか。それは「他者」である。
 
 この「他者」の視点に立って書いたのが、ドストエフスキーとシェイクスピアの二人、つまり「作家」という事になるだろうが、これは登場人物としては、ハムレット、ラスコーリニコフというメインキャラクターにおいては内面と外面の矛盾という形に現れた。
 
 ハムレットは、最初から行為を予感している。彼は冒頭で亡霊を見る。父の亡霊を見て、復讐を決意する。小林秀雄は、この亡霊をハムレット自身と見ている。これはその通りだろう。フロイトが無意識を発見するよりもっと前にシェイクスピアは無意識を発見していた、と言ってもいいだろうが、そういう言い方は誤解を招くだろう。心理は学者の手のひらで発見されたり消えたりするようなものではない。
 
 ハムレットの見た亡霊は彼自身であるだろう。その時にもうドラマは始まっている。そうなのだーー私にとって、謎であると共に明快な答えである事、それはシェイクスピアにおいてもドストエフスキーにおいても、その物語は「既に」スタートを切っているという事にある。これは物語製作者が巧みに物語を作るというような話とは全く違う事柄だ。
 
 ラスコーリニコフは、亡霊の代わりにイデーを持っている。彼の思想は生き生きとしている。私は、彼の思想を正当に批判してみせた人を知っているが、その人はドストエフスキーのような作品を書かないだろうし、ドストエフスキーを越えた天才でもない、と私には思われて仕方ないが、この事は非常に重大な事実である気がする。
 
 ラスコーリニコフにとってのイデーは、ハムレットの亡霊と同じである。イデーとは外化した自己にほかならぬからだ。それは一旦放たれると、もう自分の手に負えない。ラスコーリニコフがイデーを自ら否定し、それにも関わらず、すぐそれに捉えられる様は、ハムレットが復讐について決断したり否定したりする自由があるかのように振る舞うのによく似ている。彼らは既に決定されている。決断したのは彼自身だ。だが、彼らは強大な近・現代の自意識家としてそれを否定してみせたりするのである。彼自身が決めたのにーー。しかし、人は本当に自分だけで生きられるのか。自分とは自分でないものを含んでいるのではないか。ここに作家の目がある。ところで、ハムレットやラスコーリニコフにとっては、全ては自己の意識に収斂するもののように思われるのである。
 
 ハムレットやラスコーリニコフは、作中において自由があるように感じ、振る舞っているが、実際にはないのである。ないという事を作家の目だけが知っている。ところで、現実に生きる我々が自由があると感じ生きている事も全く同型の事ではないか。私にはそんな風に思える。もし神の目があればーーいや、神の目がなくても、より高い目があれば、生きている人間達が、自分達が自由があるかのように振る舞っている様が見える事だろう。蟻の研究者は蟻の自由を認めるか。彼らの自由の、無際限の可能性を認めるか。認めるかもしれないが、蟻が蟻的存在から逃れられぬという事くらいはわかるだろう。蟻は蟻の巣を作るのであって、いきなりロケットや尖塔を作ったりはしない、という程度には蟻の可能性は限定されている。
 
 ハムレットは最初に亡霊を見る。マクベスは魔女を見る。ラスコーリニコフは自己の思想を見る。自分から生まれたものを、彼は自分の手中に収めようとしたが、収められない。しかし、自分という存在そのものがもっと大きな存在から吐き出されたなにものかであるに過ぎない。自己は自己を意識するが、その外側は明瞭に存在する。それに対して、登場人物達は悩んだり考えたり、理性的な決断があるかのように振る舞うのだが、実際には彼らの自由は孫悟空がお釈迦様の手のひらの上を這いずり回るようなものでしかない。
 
 以上のような部分を、ラスコーリニコフもハムレットも知らなくても、作者は明瞭に意識している。小林秀雄はそれを特に強調している。
 
 作品の始まりは、いずれもそれぞれに、自分の幻影を見る所から始まっている。ハムレットの亡霊、ラスコーリニコフのイデー。それぞれ、外化された自己であり、彼は自分を相手に不断の闘争を始めるが、これに勝ち目はない。何故ならば「勝つ」という事がそもそもないからである。答えのない問いに取り組む数学者のようなもので、この学者に答えがあるとすれば「この式には答えがない」と悟る以外にない。
 
 では作品の終わりはどうなっているだろうか。ハムレットは復讐を果たすが、復讐の喜びを少しも味わわない。亡霊ももう出てこない。「ハムレット」は復讐に成功した男の話では多分ないのだろう。あれは、肥大化させた観念を、これまた彼自身の投影である現実にぶつけ死んだ男の話なのだろう。彼には、恋人のオフェーリアの姿が見えない。関係のない人間を間違って殺しても反省していない。それぞれにすべて、自分の見ている幻影の一部であるから。彼は最後に、自分の幻影の急所たる義父を殺さねばならない。
 
 だが、ここで誤解してはならない事があるとすれば、ハムレットが外界に現実を認めるべきだった、他者を認識すべきだった、というような意見が発生しかねない余地があるという事だ。そのような場所は本当はない。各々がそれぞれの認識に従って生きねばならない。それは人間の運命であって、自分が「ハムレット」でないからといって簡単に他者を認識できると思うのは間違っていると私には思われる。人はそれぞれの誤謬を大切にして死ぬしかない。言うまでもなく、多数者である事がこの事を客観的真理に変えてくれるわけではない。
 
 ハムレットは死ぬ。死は、意識の消滅であって、解決ではない。解決はないから、死によって止むしかない。ではもうひとり、ラスコーリニコフはどんな終わりを辿るだろうか。
 
 ジッドが指摘したように、ラスコーリニコフは東洋的、仏教的な自己廃棄に至る。これは内面の死と読んでもいいが、来世ーー彼岸に次なる物語を託したと考えてみてもいい。ドストエフスキーはラスコーリニコフの内面を、エピローグでは描かなかった。描けないからである。彼はある点に到達した、と。それは人間の認識できる範囲を越えている。そこであれだけ饒舌だったラスコーリニコフは黙らなければならぬ。
 
 ドストエフスキーにとってはいつもそうだった。「商家のおかみさんになりたい」という願望が語られたり、「子供達は天使だ」と言ってみたりするのは、みな、自意識という悪夢から逃れたいという願望に他ならなかった。ラスコーリニコフはドストエフスキーの分身であろう。ラスコーリニコフは果てまで行った。というのはドストエフスキーが実際に果てまで行ってみたからである。
 
 この文章はここで終わるが、よく考えてみると、言いたい事が少しも言えなかったような気がする。だが、それは必然であるような気もする。というのは、評論という形ではどうしても言えない何かがあるように、今の自分には思われるからだ。
 
 実際、ラスコーリニコフの内面の苦悩の道行きを見てみるがいい。彼は牢獄に至ってももぶつくさと言っている。彼が悟りを開いたとしても、次の瞬間には、すぐ疑問符が自分の内側から、外側から飛んでくるだろう。ハムレットの亡霊、マクベスの魔女、ラスコーリニコフのイデー、スタヴローギンにとっては、彼が感化したかつての友人ら。それらはみな自己の分身である。主体を苦しめる客体化された別の主体である。人は、自分自身だけで生きられない。自分がどれだけ孤独だと自負していても、環界に身を開いて人は生きている。その事を避けようがない。それは、他人と共同で生きているというよりは、人は自分というものの限界を離れられぬにしても、その限界の外側が成立するような世界を信じてしか、決して本当に生きる事はできないからだ。すべてが自分の一人芝居だったら、虚しいだろう。そんな事は、多分どんな人間にもできない。
 
 ハムレットが死ぬのは彼が救われた瞬間だと、キリスト教的に言う事もできるだろう。彼には復讐の達成感はなかったが、彼の夢魔を消滅させる事には成功した。というのは、彼にとってはそれ以外に全然答えがなかったからだ。ラスコーリニコフはおそらく、彼岸の古代的風景を見てそのことに気づく。だが、それは言葉にはもうできない。そこから先は言葉になる事はできない。彼ができるのはただ優しいキリストのような微笑みを湛えて、ソーニャの手を取る事だけである。
 
 

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