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僕とマット運動

もうすぐ保健体育教諭としての9年目を終えようとしている。僕が初任の頃に望んだ9年目よりもずっといい感じがするし、予想していた以上に視界はいい。

それはそうか。僕らが予想、想像ができるものは僕らの経験の枠を出ないから、僕が初任の時に望んだ9年目の姿はあの頃、僕のもっている経験の中から覗いてみた曖昧な9年後であり、近くにいる9年目の姿から照らし出した曖昧な理想像である。

同じように、今の僕が予想するここから先の10年後は僕が見てきたものや知識に依存する。少しいいものを知ってしまったからか10年程度じゃ届かないよと笑うのだけれど、実は今の僕にはそう見えるだけで、本当はそんなこともないということがあるということも知ってきた9年でもある。

9年前の実践をもう少し笑えるのかなと思ったけれど、意外とちゃんとしていて笑えない。いや、浅いと笑えるようになるにはもう少しの時間が必要だったりするのかもしれない。

僕が少し年上の大人に重ねてみたように、今目の前の15歳が15年後の姿として僕は重ねるに値する大人なのか、目を見ればわかる。表情を見ればわかる。彼らは僕を友達か何かと勘違いしている。-終-

さて、今年度の授業も残すところあとわずか。3年生はマット運動の単元を終え、最後の単元に入ろうとしている。今年初めて出逢った子ども達は、1年間様々な単元を通して運動に親しんできた。子ども達は「運動が上手になった」と振り返るけれど、僕から言わせればそれ以上に「学び方が上手になった」子ども達だったんだと思う。

ここ2年、授業内での振り返りをやめた。毎回次の授業までにじっくり考えてきなって。文量が凄くなってきた。

今年の子ども達と作ってきた授業です。興味があれば読んでください。長いですが、きっと良いです。

授業は僕の仕事であり、スタバで授業をうふふと構想するのは趣味だった。そんな仕事と趣味の線引きが難しいくらいには9年間、保健体育をおもしろがっている。

日曜日が辛くない、サザエさんを楽しめる、そんな仕事を天職と呼べるとするなら、僕には一発目の就職活動でそれを手にした幸せがある。「何者にもなれない」と現状を悲観する僕は、実はもう報われているのかもしれない。隣の芝は青過ぎるのに、手入れの大変さには思いを馳せられない、人間って都合いいよなって思う。

過去の自分に頼れば楽ができる。それは間違いないし、これまで上手くやってこれたシステムは手放すに惜しい。研修をしていると新しい教育方法を受けてのベテランの第一声は「でも」から始まることが多い。でも、ずっと同じことしていたら僕はきっとこの仕事をおもしろがっていられない。僕の経験は楽をさせてはくれない。「ほら、またおもしろいことやれよ」って強めに背中を押してくる。

僕とマット運動

新しい単元に入る前に、僕がスタバで何時間もかけて考えることは「まだ誰もやったことがない、おもしろいことはできないか」という問いです。これまで僕のnoteで提案してきた各単元のアクティビティやミニゲームは、教科書のどこにもないやまだオリジナルであることを誇ってきました。

ただ、斬新なのはアクティビティやミニゲームレベルの話であることが多く、そもそもの授業の形そのものは「皆で同じ課題に取り組み、皆でそれを達成していくスタイル」であることが多いのです。

もちろんそのやり方で多くの学びを得てきた自信もありますし、たくさんの子ども達が楽しみにしてくれる時間を提供できた自信もあります。9年間で僕が身に付けてきた自信は振り返るととても大きなものだったと誇らしくなります。今、どこの環境に移っても保健体育を武器に子どもを夢中にさせることができる未来がありそうです。

ただ、ずっと同じところにいたら僕はすぐに時代に置いていかれてしまいそうだし、果たして今年学び方が上手くなったと思った子ども達は誰の下でも上手く学べるのか?そんな不安が過ぎります。

そして10年目を迎える前に一度立ち止まってみようと考えたのです。

そもそも、みんな上手くできるようにならなきゃいけないのか?
そもそも、体育の時間に体力を高める必要があるのか?
そもそも、運動量はどこまで求める必要があるのか?
そもそも、いい授業ってなんなんだ?
そもそも、、、、

そもそも、という言葉が世界の見方を変えてくれるようで好きなんですが、もう一度自分の授業が子どもの見方、考え方を十分に働かせているかを問いました。

もしかしたら子どもの威勢の良さに学びが見えづらくなっていた部分があるかもしれない、もしかしたら一部の主体的な生徒の色が全体の色だと安心してしまっていたかもしれない、もしかしたら・・・

やっぱり不安になって、研究の浅かった初任数年で出逢った子ども達に申しわけなくなりました。

そこで今回は学びを子ども達に投げてみようと思いました。1年間ここまで学んでこれた子ども達ならきっと大丈夫だろうと、個人に学びを託す自信がついたのです。僕に支えられた自信ではなく、自分の力で学びを深めていく単元にしようと考えました。

今風の言葉で言うと、自由進度学習に近いかもしれません。子どもたち一人ひとりが取り組むべき課題と進度を自由に決める学習スタイルはこれまでもあったと思いますが、「体(てい)のいい自習だ」と教育現場ではあまり受け入れられる土壌がなかった気がします。でも時代の後押しを受けてチャレンジしてみました。

オリエンテーション

「今日からマットの授業に入るけど、マットの印象教えて」

「苦手っす」「あんまり好きじゃない」

「そうね、球技と比較するとどうしても楽しさはわかりづらいかもしれない。俺も中学生の頃はめっちゃ嫌いだったもん、おもんないわーって思ってた」

「え、じゃあやめましょ」

「まぁ待って。大学生の頃にね、教員採用試験に受かるためにはこのマット運動を絶対に通らなきゃいけないって知ったの。何が何でも現役で受かるために、大学にいた体操の元全日本チャンピオンみたいな先生にお願いしに行ったら『明日から来て』って言われて、次の日から週3ぐらいで練習が始まったの。しかもマンツーで」

「え、地獄」

「いゃ地獄だと思ったんだけどね、時間かけると意外とできるようになるわけよ。余裕でできると思ってた前転とか、側転とかも『体操の世界じゃそれできてないからね』って。めっちゃ厳しいの。でもコツと少しの継続で色んなことができるようになるわけ、そしたら不思議と楽しくなってくるわけよ。体重の掛け方もう少しこうだなとか、足開くタイミングもう少し遅らせようとか、考えるほどパフォーマンスが上がるその感じが」

「ほーん」

「まだ興味なさそうね、大丈夫想定内。その先生にね、言われたの『ビールみたいなもんだから』って。ビールって最初まずいじゃん?」

「いゃ飲んだことないっすよ!」

「あるじゃんどうせ。その先生が言ってたのは『ビールって最初は美味しくないんだけど、飲み続けるとね、ある日、あれ美味しいかもって思う日がくるんだ』って。『そうして美味しくなって飲み続けるどうなると思う?って。アル中になるんだ』って」

「おもろ」

「思ってないじゃんどうせ。まぁいいや。スポーツも勉強もね、上手くいかない時間をどれだけおもしろがれるか?だと思うのよ。でもまずいものを『気合いで飲み続けろ!』は教育じゃないと思ってるの。それでもみんなの将来のためを思ってとか言って無理やり飲ませられるからみんな嫌いになる。でもそうじゃない。そこは俺の力を信じて任せてよ!」

「じゃあ今日から始めるわけだけど、今日は前転とか後転とか一切やらないです。じゃあみんな目つぶって腕を肩まで上げて平行にしてみて」

「全然平行じゃないw」

「次は目つぶってこのラインの上歩いてきて」
「目つぶってこのライン上にボール転がして」
「2人組でキャッチボールして。できたら1人は目つぶって投げてみて」
「7m離れてこのカゴにワンバンしてボール投げ入れてみて。2回できたらホンモノ、制限時間は2分ね」

「4月、最初のオリエンテーションでも話をしたけど、この授業の約束は『センスがないんでできません』って言わないって約束だった。覚えてる?」

「はい、だから言ってません」

「そうだったね。で、この授業ではセンスは知識の集合体、圧倒的な知識量のことだって定義した。今日から始まるマットの授業はできなくたって何にも問題ない。できたものの数を人と比べる必要もない。自分の身体はこういう癖があって、思った以上に左右差があって、視覚情報を切るとまっすぐ転がれなくて、イメージとパフォーマンスにはこれぐらいの違いがあることを知る。目つぶったら全然歩けてなかったからね?あるよマットでも急に目で情報取れなくなる時、後転とか」

「あぁ目が見えるしあわせ・・・」

「この1年間、バレーやサッカーでたくさん仲間と対話してきたじゃない?それを今度は個人に返すの。自分と対話するのね。そうやってセンスのもととなる知識を積み重ねていく。その知識を得るためなら、僕を使ってくれてもいいし、友達に協力してもらってもいいし、iPadを使ってもいい。何してくれてもいいよ。それぞれが自分の問いを追究していく、そんな単元にしてほしいの。頑張れそう?」

「はい!」

自由進度学習を通して追究を続けたその後の授業

単元はどこのクラスもだいたい10時間。

授業の流れは第1部が教師主導のFMS(ファンダメンタルムーブメントスキル:すべての運動の基盤となる力)向上をねらったルーティーンワーク(15分)、第2部がチャレンジタイムと呼ばれる自由進度学習(30分)です。

【第1部】ルーティーンワーク

①手首、頭のストレッチ
②股関節のアクティベーションTR
③ムービングプランク
 :プランクの姿勢から手拍子で横に転がって再度プランクの姿勢
④ジャンプTR
 :マット1枚に4人が横になり転がる。それをジャンプで跳び越えていく。跳び方にバリエーション。右足→左足→両足→360°
⑤カエルの逆立ち
 :カエル姿勢で足を浮かす(20秒キープでA)
⑥カエルの足打ち
 :倒立姿勢で足打ち(7回でA)
⑦肩倒立
 :肩で支える(12時の方向に足が上がり20秒キープでA)
⑧三点倒立
 :手、頭のみで倒立(20秒キープでA)
⑨補助倒立
⑩川跳び
 :マットを側転の手、足で横に跳ぶ

この後、教師指定の技を行い、新しい技は教師が師範をし、5分だけその技に取り組み、その後はチャレンジタイムに入ります。

【第2部】チャレンジタイム

ここから自由進度学習です。技の種類は約20種類+α

それぞれが自分で技を選び、追究していきます。はじめにルーブリックを示し、技能におけるA評価の位置を定めます。僕の授業では定められた1回や2回の技能テストをしません。子ども達にはその時間内に何度も僕を呼んでテストをしていいことになっています。自由進度学習にしていることは責任を投げることではないので、細かなフィードバックを与えることで子ども達の練習とパフォーマンスの方向を確認します。同時に自身の授業の在り方を子どもの姿から覗きます。指導と評価の一体化です。

運動経験も違えば、体格も身体能力も運動能力も違う。画一したアドバイスではいけないし、探究にも幅がいる。子ども達には「すぐにできる必要はないよ」と伝えてあったので、子ども達は技の完成に少しずつ近づいている感覚を楽しんでいました。

僕の立ち位置は便宜上評価はしますが、ちょっと知識があって、感覚の言語化に優れた仲間という感じ。僕もより感覚を丁寧に伝えるために、知っていることを増やそうと色んな技にチャレンジしました。(倒立保持10秒と三点倒立2分が成果です)

いくつか印象に残った個人の学習を紹介します。

例えば、単元中ずっと開脚前転に挑戦していた子どもはパフォーマンスの理由を毎回様々な角度から探究していました。

「自分は身体が硬いから開脚前転は難しいかもしれない」

「自分より身体が硬い先生がきれいな開脚前転ができていたから自分も頑張りたい。開脚前転にはそもそも身体の柔らかさ解決できる人と技術で解決できる人がいると考える」

「やはり男子と女子では骨盤の構造の違いで、可動域が違うらしい。となると技術を身に付けたい。ただ股関節は球関節らしいのでストレッチで滑りを良くしたい」←身体構造の性差の違いへのアプローチ

「勢いがあればそのまま立てると思う。勢いをつけようと思った時と勢いをなくそうと思った時、それぞれの気持ちで何が身体への変化として起こっているのか調べたい」

「勢いがある時は足が地面から離れた時につま先までまっすぐ伸び切っていた。足を長く使うイメージ。先生との動画の比較では一番高いところまで足が行った時に地面まで振り下ろす速さが違った。これが勢いの原因」←運動学的なアプローチ

「先生からのフィードバックでは足を開くタイミングをマットに着くギリギリまで遅らせることで勢いを保持できるかもしれないとのこと」

「今日、やっときれいな開脚前転ができた」

友達とのやりとりやネットを使っての研究、模範との比較、様々なアプローチから成功させた技はなぜかわからないけれどできてしまったことよりよほど意味があると思います。

他にも後転でどうしても左に着地してしまう子どもが自分の「まっすぐ」の感覚には左右差があると仮定して、あえて右寄りに回ろうと重心をかけたらまっすぐ回れた話や、自分は怪我をしていてできないためフィードバックに徹して、三点倒立が上手くいかない友達ができるようになる言葉を1時間探し続けた子どももいます。ちなみにその子にバチっとハマった言葉は「頭を一番重くするイメージ」らしいです。

自分のアドバイスで友達の技が完成したらTP(ティーチングポイント)をつけていきます。

種目を20種類+αにしたのは、自分がちょっと頑張ればできそうな種目にないことを探してきて追究する子どもが出てきたからです。腕立てができるようになりたいとひたすら練習してきた子どもがいます。

10時間近くの授業で僕の想像以上にマット運動を楽しんでいる子どもの姿からはやはり学習が上手になった成長の姿を見たのです。

おわりに

15歳、自分の行動や生き方に自信をもつには少し周りの目が怖い。人と違いたくて、心の底でそうあることを望みながらマジョリティであることに守られる。みんなが頑張らないなら、頑張らない側でいた方が楽なの私。みんな頑張るとかダサいって言ってるから、きっとそうなの頑張るとか一生懸命とか痛いよ、うん。

4月、僕が出逢った子ども達は例に違わず「頑張るとかダサくね?」って目をしてた。自分の行動の理由は人がそうするからだっただろうか。

もうすぐ1年が終わろうとしている。そんな子ども達が今年、変わったなと思うことがある。

自分の行動の理由は自分の心がそう言うからになった。

トレンドや周りがどうするかに流れやすい年代の子ども達が自分の学びを自分で選んでいる姿は、僕が見たかった姿でもある。

正しく任せれば子どもはきっともっと伸びる。抑圧しているものはまだあるはず。

教育は邪魔しないことだから。

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