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169.幸せな記憶

毎朝、起きると必ず部屋の換気をする。

起きて、布団から出てすぐに家中の窓を開け放つ。暑かろうが寒かろうが、雪が降ろうが雨が降ろうが関係ないのだ。過去の空気を流し、新鮮な空気を入れて新たな1日に向かう。そんな気概。

その間にトイレを済ませ、着替え、歯を磨き、寝癖を治す。それらが終わる頃に窓を閉める。休みの日だろうと変わらず毎日やっている事。ルーティンってやつだろうか。

そんな事をしていると平日に時折、近所から朝食の香りが漂ってくる。分かりやすいのはソーセージの匂いだ。家庭による日々の営みを想像させる匂い。大人になってから朝食は食べないスタンスで生活しているが、この匂いを嗅ぐと朝食を食べていた学生時代、実家の事をふと思い出す。平和の香り。

まあ正直、連日これが続くと新鮮な空気を取り込んでいるはずなのに、肉の香りを取り込んでいる気持ちになるので嫌になる事もあるが、基本的には平和の香り。

他にもコーヒーの香りを朝嗅いでも、父親のコーヒーを横目に朝食を食べていた景色を思い出す。匂いという現象には過去の記憶を呼び覚ます効果があるようだ。

最近、ウォーキングをしているとここで書いたが、夜に鼻息荒く呼吸をしていると、ふわっと記憶が蘇る。

いそいそとチャリで帰宅する学生時代の自分の姿。その記憶の私は一体何をそんなにいそいそとチャリを漕いでいたのだろう。さっさと帰って寝たかったのだろうか。チャリを漕ぐのが面倒なので早く家に着きたかったのだろうか。それとも家に帰ってからのお楽しみがあって爆速していたのだろうか。

何にせよ、匂いで思い出す記憶に悪いイメージはない。その記憶の中の情景は夜の闇と外灯の明かり程度の景色だが、それすらも淡々とした穏やかな景色に思える。

そんな記憶を思い出しながら歩いていると今度は強めの匂いが鼻に入ってきた。近くにあるハンバーガーショップから流れてくる肉や油の匂い。これがまた別の記憶を呼び起こす。

高校の頃の夏、バンドのボーカルのリョウと2人でやっていたレストランの空調掃除のバイトの記憶。まっきんきんの金髪の頭で作業着に身を包み、何の気負いも無くヘラヘラしながらも真面目に働いていたあの時間。そして夏の爽やかな風の感触を思い出す。

普段、生活をしていてもそういう現象が訪れる事がある。

夕方、外の匂いと何かを焼いた匂いが混じり合った香り。これを嗅ぐと一気に幼少期まで記憶が遡る。場所は祖父の家。今はどうか分からないが、その当時、祖父の家は風呂のお湯を薪で焚いていた。幼い私は従兄弟と外で遊び、夕方に家に戻ると、風呂を沸かす為に焼かれた薪の煙と匂いが家の周囲を包んでいた。

ちなみにその記憶を思い出すと震災直後に2週間くらい風呂に入れなかった時、祖父の家の風呂を借りに行った事も連動して思い出す。なにせ水は地下水。風呂は薪で沸かすのだからインフラが機能していなくても関係ない。このシステムは数十年前なら当たり前だったのだろうけれど、現代の当たり前に慣れきった私は『ああ、すげえなあ』としみじみ思った記憶がある。

匂い以外にも音や明るさで思い出す記憶もある。

夏、夜の部屋の明かりの中で野球中継の音を聞くと思い出す。高校の頃、帰る途中によく立ち寄っていた幼馴染の藤田の家。夏の夜7時を過ぎた頃に2階の彼の部屋にいると1階から音と声が聞こえてくる。彼の親父(大の虎党)が観る野球中継の音と彼の親父の怒声である。その怒声を聞いて、藤田に伺う。

『おい、親父の声が荒ぶってるぞ。あれはなんだ?』

『あの声は多分阪神が負けてるんだと思う』

『ちょっとテレビ野球中継映して』

と言い、テレビをつけた後に藤田が

『な?負けてるだろ?』

『ほんとだ。負けてる』

という、どうでもいい会話とその景色を思い出す。ちなみに後々、私も声を聞いただけで阪神の勝ち負けが分かるようになった。

もちろん学生の頃の記憶だけではない。初夏、眩しい程の朝日を浴びながら窓を開けて風を感じていると思い出す。都内のライブから明け方家に帰ったものの、明る過ぎて眠れず、ベットの上で横たわりながら眺めていた風に揺れるレースのカーテン、太陽光を受け止め、真っ白に光り輝いていたその色味。それを見ながら

『(ああ、早く眠りたい)』

そう考えていた記憶。

脳で考えて思い出すというより、感覚的な器官によって思い出される記憶の数々。不思議なのは当時、その瞬間に『この匂いと景色は記憶に残りそうだ』なんて思ってもいないし、そもそも記憶に残る様なインパクトもないのに勝手に体の嗅覚や視覚らと連動して記憶しているという点。

傾向的には楽しいとか、悲しいという偏りのある内容ではなく、何気無い日常風景。一つだけ法則があるとしたらストレスが全くかかってない状態という事だろう。そう考えるとこれらは幸せな記憶達なのかもしれない。

だとするならば、後々時が経ったとき、感覚器官で思い出す記憶が多ければ多いほど幸せな日々を過ごしてきたという証明なのだろう。たぶん。知らんけど。

例えば、意識下では記憶に残らないと思われる何気ない時間を過ごしていたとしても、体が勝手に《このシチュエーションは幸せだ》と判断したら記録されているのだろう。それが今なのかもしれないし、もう覚えていない先月や先週の一幕の事だったかもしれない。

今の所、そういった記憶が沢山ある。つまり私は幸せな人生を歩んできたのだろう。

イベントだとか、モノに頼ったりだとか、そういった刺激的な記憶の中にも幸福感はあるのだろうが、ただそれはあくまでイベントであって、刺激的な内容には上限が無さすぎる。

あれよりもっと、それよりもっと、と終わらない螺旋の様にも思える。それ自体、悪い事とは思わないし、使い方によっては良いエッセンスとも思うが、どこかに空虚感を抱えてしまう側面もあるだろう。

本当の幸福感とは何気ない日常に潜んでいて、それを堪能出来れば何かに頼らなくても幸せを感じられる。そんな事を思うのだ。

おわり

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